「ジョーカー フォリ・ア・ドゥ」
https://wwws.warnerbros.co.jp/jokermovie/
やっと見てきた。なんというか、普通の映画だった。前作から5年の間に、伝え聞くアメリカの現実はこの映画を追い越してしまった感が残った。
自己抑制というリミッターがはずれたジョーカーという人格を、恐れ忌み嫌う人々がいる一方で、それを羨み崇拝する人々がいる。アーサー/ジョーカーがどちらに落ち着くのか、はたまた器用に切り替えながら生きるのかに興味があった。
本作は明確に結論を出した。これでよかったのじゃないか。
アーサー・フレックの物語はこれで終わり。ジョーカーの狂気はハーレイ・クインゼルとその子に引き継がれた。
印象に残った登場人物を三人、挙げておこうと思う。
一人は、アーサーの元同僚の小人症の男。証言台で彼は、自分に優しく接してくれたのは君だけだったと涙ながらに訴える。アーサーの良心を映したような存在。でもそんなものではジョーカーを止められない。
もう一人は、テレビのインタビュアーの男。彼は質問の体を取りながら、アーサーを可哀そうな過去を背負った犯罪者というステレオタイプに強引にはめ込もうとする。はなはだしく客観性を欠いた、マスメディアを代表するような存在。アーサーはそれに激しく反発する。個々の人間を見ずに出来合いのパターンでものごとを理解したつもりになる傲慢と知的怠慢への反発だろうか。
そして最後の一人は、看守の男。この男は当初、アーサーに寛容な態度を示す。それどころか、一時は彼のカリスマに影響されかけたようにも見える。
けれども、法廷でアーサーが看守たちを豚と呼ぶのをテレビ中継で見たことで目が覚める。取り繕った寛容は消し飛び、その夜、ほかの看守たちと一緒にアーサーに暴行を加える。善良を気取っている人々の裏に潜む獣性が爆発する。
三人がそれぞれに、古き善きアメリカという幻想の一面を表しているようにも思えた。それらに対しては、アーサーはジョーカーとして応じるのみだ。一体何がジョーカーを引き止められるのか。
彼を正気に立ち戻らせたのは、父親という立場だった。思いもよらなかったが無意識に望んでいた役割、無力な誰かに信頼され必要とされる立場。それだけが、ジョーカーの狂気を癒すことができた。それがこの映画の結論だ。
至極真っ当な結論を得て、本作は普通の映画になった。それでよかったと思う。ジョーカーを野放しにしたのでは収拾がつかなくなる。メディアが伝える現実の米国の狂いっぷりも、ひょっとしたらメディアが誇張して拡散する幻想に酔っているだけで、大多数の人々はもう少し落ち着いた日常を過ごしているのではないかと希望をもたせてくれる、そんな風にも思えました。
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