「アステロイド・シティ」
https://asteroidcity-movie.com/
「フレンチ・ディスパッチ ザ・リバティ、カンザス・イヴニング・サン別冊」が、アメリカから見た憧れのヨーロッパって実はこんな感じ、という作品だったとすれば、本作は、そこに住んでいる目から見るとアメリカっていまこんな感じ、という作品なのではないかと思いました。
「フレンチ・ディスパッチ~」が、雑誌という媒体にヨーロッパの断片を切り取って張り付けた形式を取っていたのに対して、本作は、演劇という媒体を使った米国のコラージュの形式を取っています。
米国のイメージとして他国の我々にもお馴染みの様々なイメージ、砂漠とサボテンの西部、資源を運ぶ長大な列車、農業大国と自動車王国と核ミサイルの同居、UFO、ショービジネス、福音派とキリストを信じない子どもたち、小数の科学の天才たちが牽引するフロンティア、警察と犯罪者のカーチェイス、などなどなどが戯画化され、演劇のひと場として詰め込まれています。その裏側では、劇作家と主役俳優を取り巻く人間模様がモノクロで挟み込まれて行きます。
この2本立ての進行は交わらずに続いていくのですが、最後に、劇中劇の主人公がセットから抜け出して脚本家に抗議にいくことでその境界が破られます。主演俳優は、自分が演じているものの意味がわからないと言い、劇作家は、それでいい、あなたは正しく演じていると答えます。そして主演俳優は、息抜きに出たバルコニーで、劇中には出番のなかった彼の妻役の俳優と出会い、言葉を交わします。
この場面には生身の人間の実感が籠っており、本作の他の部分が生の感情を出さない蝋人形のような体裁をとっていることと、鮮やかな対比を成していて、奇妙な感慨を呼び起こします。おそらく本作は、この場面を際立たせるために、ここまで手の込んだ機械仕掛けのドタバタを延々と見せてきたのではないか。ではこの場面が意味するものは何でしょうか。
妻の死。その悲しみが本作には随所に埋め込まれています。故意に無表情な描き方をしているので気づきにくいけれど、そこには深い悲しみがあるはずです。それが最後のこの場面で突然浮上して、観る者の心を揺さぶるようにも見えます。
あるいは、人の目に触れずに役割を果たして報われることなく消えていったものへの哀愁もあるかもしれません。直接的な受け止め方ですが。
更には、歴史の転換点に立っているアメリカは、この先どうなっていくのだろうかという不安もありそうだといったら、さすがに穿ち過ぎでしょうか。米国社会のコラージュを使っているので、そう読み取れなくもない気もします。
いずれにせよ、この最後のパートで、見る側は、何重にも折り重なったイメージが同時に着床する不思議な気分に囚われます。そして、エンディングの歌がまた意味深です。
"You Can't Wake Up If You Don't Fall Asleep"
歌詞はこのサイトにありました。
https://www.azlyrics.com/lyrics/jarviscocker/youcantwakeupifyoudontfallasleep.html
目覚めるために、まず眠れ。とでも訳しますか。
伸びんとすればまず縮めという諺を思い出してしまいます。
どう受け止めるかは人それぞれだと思います。
「映画・テレビ」カテゴリの記事
- 「首」(2023.11.26)
- 「ロックウッド除霊探偵局」(2023.11.23)
- 「鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎」(2023.11.20)
- 「リアリティ/REALITY」(2023.11.19)
- 「正欲」(2023.11.13)