「ノット・オーケー」
スローなテンポで昭和っぽいユートピアだった。
ブライトのキャラクタが少し変えられていたのがちょっと残念。
ククルス・ドアンの物語が少し浅い感じがした。
「この子たちのために戦えるか」のあと「たとえ仲間とでも」という問いかけが本作の核心のはずだけれど、それを際立たせるものがなかった。ドアンは昔の仲間と戦ったけれどそこには葛藤があまり感じられない。アムロはもちろんいまの仲間と戦う場面はない。
まあ懐かしかったからよかったです。たぶんガンダムを見るのもこれが最後かもしれない。
NETFLIX シーズン1全10話
B級作品。結局カンフーアクション作品なのか。。主人公に与えられた力がぱっとせず、わかりにくい。
「死を以て生と成す」という哲学があるようだけど、いまひとつよくわからない。世の中の大義のために個を殺すこともまた必要、くらいの意味なんだろうか。
超常の力は見栄えがするけど、それなしで単純に、ロシアマフィアとチャイナマフィアの抗争でもよかった気がする。
途中で見るの止め掛かったけれど、しょうがなく最後まで付き合った。途中で損切する勇気がほしい。それと、1.5倍速が上限だけど、3倍速くらいのモードも欲しい。
物議のオンパレードだった同大会の、一応公式記録映画。
とはいえ、記録と呼べるほどの網羅性はなく、むしろスポーツの良さを伝えるための、かなり編集意図の入ったものになっている。
私自身はTVを見なくなって長いこともあって、スポーツ観戦にはほとんど興味がなくなっている。オリンピックもその延長線上にあり、いつの間にか始まっていつの間にか終わっていたというくらいしか記憶にない。もちろん、元建築屋としては、新スタジアム建設の大騒動には大いに興味を掻き立てられもし、また、最近の神宮の杜再開発事業の行く末にも関心はあるのだが、スポーツそのものとは何の関わりもないことだ。
そういう私でも、本作を見て、スポーツというものが現代人に欠かせない大切なものを含んでいるということはよくわかった。
例えばソフトボール。一時、正式種目から外されていたらしいのだが、復帰した本大会の決勝戦で、スポーツの醍醐味の真骨頂を見せてくれた。この試合で、バッターが放ったヒット性の弾丸ライナーを、サードが横っ飛びにかろうじて飛びつきグラブで弾いた球をセカンドがボレーキャッチしてダブルプレーという、一瞬の劇的なドラマがあった。
選手たちの動きは、長い間の鍛錬で培われた反射神経や筋力と瞬時の状況判断とがあって為されたものだが、それがこの重要な局面で、信じられないような偶然のボールの軌道によって引き出されるという、奇跡のような瞬間を、選手観客全員が目撃することになった。
そういう瞬間のために、人は日常の努力を積み重ねるとも言えるし、そういう瞬間が訪れないまま終わる努力の方が圧倒的に多いとも言える。ゼロではない可能性を求めて精進する人々の営為を、スポーツというものはわかりやすく見せてくれ、感動を呼び起こすということがよく伝わってくる映像だった。
また、スポーツ選手(アスリート)たちの立場や考え方にも様々あり、ひと昔前のような国威発揚ステレオタイプでは括れなくなってきていることも読み取れた。
他国との紛争を抱える故国を脱して、縁も所縁もない国から代表として競技に参加する選手たち。スポーツは仕事と考えて自分の家庭や幸福と分けて考える砲丸投げ選手。逆に生んだばかりの赤ん坊に授乳することを最優先で考える母親選手。オリンピック選手というよりは求道者を思わせるような柔道家と、国威から勝敗を考えざるを得ない立場の監督コーチ陣。老若男女が同じ競技を楽しむために集まり互いをリスペクトしあうスケートボード選手たち。等々々。
こうした描写を、感動ポルノなどと呼んで蔑む向きもあるようだが、様々な背景を背負ってこの場に臨んでいる一人ひとりの選手を見れば、とてもそんなことは言えない。例えば受験生を見て同じことはとても言えないだろう。それと同じだと思う。
もちろん、私自身は相変わらずスポーツ観戦に興味はないけれど、この分野が産業化して、それに関わる人々の悲喜こもごもが団子になって転がっていくなら、それはそれで社会の一角を成すものとして認めてもいいのではないか。そんな気にさせる作品でした。
同名の小説が原作で、原題は"mothering sunday"。かなり古くからあった祝日らしい。この日、奉公人たちは1日暇をもらって好きなように過ごすことができたとの由。
https://en.wikipedia.org/wiki/Mothering_Sunday
その日、ある上流階級の屋敷で働くメイドの女性は、近隣の同格の家の跡取りと最後の逢瀬を楽しむのだが・・という発端から始まって、当時の英国の没落しつつある旧家と、新しい時代を象徴するような作家という職業の勃興を、やや哀愁を込めて描いている、ように異国の私には見えました。英国人から見ると、どういう感慨を抱くのかはよくわかりません。
この主人公が作家を志すことになった直接の切っ掛けは、最後の逢瀬の日に一人で彷徨った恋人の大きな家の書棚で見かけた本にありました。そのことを本作ではさりげなく、ロマンチックに描いています。
しかしそれとは別に、衰えを知らない創作意欲の原動力はというと、自身が最後に受賞インタビューで答えているとおり、言わずにはおれない事どもを抱え込んでいたから、ということでした。
人生の諸々を、義務という名の元にあらかじめ決められていた旧家の御曹司と、孤児からメイド、書店員、そして作家へと、自らの意志で諸々を掴み取ってきた女性との鮮やかな対比がここに見られます。全てを与えられて始めた者と、全てを奪われたところから始めた者との対比、とも言ってもいいでしょうか。作中ではその全てを奪われた状況を、別の登場人物の口を借りて、"Gift"と言わせています。この見方は新鮮でした。
本作の本義はその辺りにありそうですが、ほかにも、異なる立場の二人が数年の間互いに愛し合いながらも、男の方は注意深く避妊し続けていた描写のあたりに、社会階層の溝を見たりすることもできるような、ある種の微妙さも孕んだ作品でした。