「アメリカン・ユートピア」
アメリカ人の、アメリカ人による、アメリカ人のための作品。
アメリカという新天地へ誰もが移民としてやってきて、交流し、生活し、政治活動し、挫折して自省し、犠牲になった者を悼み、そして新たな希望を目指してまた進んでいく。
立ち止まることのない彼らの、慌ただしい生き様を、暗喩と風刺と、具体的な名指しも交えて綴る、グルーヴィーなパフォーマンス。
演劇のようでもあり、舞踊のようでもあり、マーチングバンドかと思うと、コンサートのようでもあって、スピーチのようですらあるという、知性と感性の両方が刺激される面白い体験でした。
普段あまりコンサートなどに行かない私にとっては、こういうパフォーマンスもあるのかという驚きでいっぱいです。
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みんな故国を捨ててここへ来た。あれが目指すアメリカだ。という感じがまずすごい。我々のような自然成立している国家とアメリカという天地とは、全く違うことが強く感じられます。
本作には、新しい家、目指すべき建物というメタファーが繰り返し出てきますが、それが国家としてのアメリカ。
それが、ガラスとコンクリートと石に過ぎないことがわかって、そうじゃない、houseではなくてhomeでなければならない、というあたりからストーリーが回り出します。そう、コンサートなのにストーリー性が強く感じられるのです。
金銭的な成功から人間的なつながり重視へと、話の中身は王道ですが、その表現の仕方が独特です。
流れて行ってしまった水、というのが何の比喩なのか、的確に言い当てるのが難しいのですが、それを目指して新天地へやってきた目的のものが、手のなかからすり抜けていってしまう喪失感が、よく表れていました。
燃える家、というのはたぶん、アメリカという価値の体系に火がついて、根底から再考を迫られていることを指しているのだろうかと思います。彼ら自身もそのことをよくわかっているのでしょうね。
家族を持つことの喜びや、生活雑感のような日常の苦楽を謳った曲も交えながら、後半に進むにつれて、話が具体的になっていきます。2016年という年がでてきたり、選挙の投票率の話があったり、犠牲になってきた黒人たちの具体的な名前が出てくるとか、ブロードウエイの出し物として、そういうこともできるのかと、その型にはまらない発想がよいです。
最後は、劇場の観客席を演者たちが一列になって行進しながら、カウボーイのような気勢を上げて最高潮に盛り上がるのですが、当然ここはアメリカ原住民を思い出すところです。このパフォーマンスのシナリオを書いた人間が、原住民に対して犯してきた過ちを感じていないわけがないのですから、その反省と償いは承知の上で、それでも俺たちは前に進むという割り切りと覚悟を、ここでは見るべきなのでしょう。
このパフォーマンスを、スパイク・リーに映像としてまとめさせるという発想がまたすごいです。目論見は見事にあたっていて、演劇用のコンパクトな舞台での動きを、観客席から見たらあり得ない様々な視点とカメラワークで捉えて組み立て、元の舞台のエッセンスを強く引き立てているかのようです。
他国人の私から見たとき、アメリカとは何か、を否応なく考え感じさせる、非常にインパクトのある作品でした。