「最後の決闘裁判」
一般受けはしないかもしれないけれど、興味深く観ました。
冒頭と結末を決闘の始まりと終わりで挟んで、中の大部分を3層のサンドイッチにしています。
その3層では、中世フランスで起きた婦女暴行事件が、決着を求めて決闘裁判に至る過程を、当事者3人それぞれの視点で繰り返し3回描くという面白い構成になっています。
3回は、夫、間男、妻の順で第1章から第3章まで章立てされています。第1、2章では、富と権力、社会的認知を巡る、よくある男どうしの嫉妬や軋轢の話が中心ですが、第3章へ入ると、狭い男社会から、女の日常も含んだ世界へと視野が広がり、人としての尊厳を認められない女という立場からの男達への抗議という形に、話の相が移っていくのが刺激的です。
この3回は全く同じではありません。例えば、台詞の中のIをWeに変えて、夫婦の意識のすれ違いを表していたり、見交わす視線のニュアンスを微妙に変えて、本人の心の裡と、他の2人の受け止め方との相違を見せたりと、役者の演技力も最大限に活用して、なかなか凝ったことをやっています。
そのくらいの微妙な違いなら、行き違いで済むのですが、もっと大きく違っているところもあります。例えば負け戦から帰還した主を迎えに出た妻が、夫をハグしたのか、それとも夫が妻の露出度の高い装いに腹を立てて無視したのか、2人のパートではっきり食い違っています。人は自分に都合のいいように記憶を改竄するものだという皮肉が込められているかのようです。
こうして、人の記憶の曖昧さと主観的な見方の食い違いとの相乗作用を見せつけながら、件の事件が本当はどうだったのか、合意の上の不貞だったのか、それとも女の意思を無視した凌辱だったのか、作品はそれにまつわる様々な相を問うてきます。
中でも、この種の微妙な事件に対して、同じ女という立場からどう見るのかについて、渦中の女性の姑と友人を通して語らせているのが辛辣です。さらに、公正な裁判を受けるために事件を公にしたことで、女性が様々なセカンドレイプに晒されることも描いていて、これが史実のとおりだとすれば、今も昔もこの種の話の構造に変わりはないことを示しています。
3章を見終わって、映像は再び冒頭の決闘シーンの続きへ戻り、激闘の末に、夫が間男を組み敷いて告白しろと叫ぶのに対して、間男の方も、強姦はしていないと叫び返しています。
この事件では、行為があったこと自体は誰も否定していません。それが女性の同意の上だったのかそうでないのかが問われています。その答えは、女性の心の裡にしか存在しない。そして、心持ちも記憶も、後からいかようにでも改竄され得る。作り手はそう描いているようにも見えます。
舞台は中世であっても、現代の同種の事件に通じる普遍性がそこにあります。
決闘に決着がついた後、臨席していた当の女性が、闘技場に集まった観衆に向ける醒めたまなざしは、この事件を興味本位でしか見ない烏合の衆に対する、沈黙の非難を含んでいます。作り手が締めくくりに描きたかったのはそれかもしれません。
史実によれば、この夫は数年後に戦死し、妻は再婚せず女主人として裕福で幸せに暮らしたそうです。
怒れる夫の名誉のために半分以上は巻き込まれるような形で、しかし残りの半分はおそらく自身の意志で、決闘裁判というセンセーションを巻き起こしたこの女性が、後半生を幸せに生きたのであれば、幸いというべきでしょうか。