「プロミシング・ヤング・ウーマン」
若さゆえの過ち、では片づけられない品性下劣な過去の行いを、人はどう扱ったらいいのか。大人の分別で忘れていいものなのか。
本作では、悲劇的な結果をもたらしたある事件を、皆が忘れ、言い訳し、傍観者になろうとする有様を、これでもかと咎め、抉ってくる。
男性で関わりのあった者は、二言目には、まだ子供だったと言い、女の方もその気だったと言い訳する。だが当事者の女性にその言葉は意味がない。
女性でそれを知っていた者は、同じようなケースはたくさんあって、女の側にも隙があったと言わんばかり。自分は公平に対処していると澄ました顔をする。だが自分や自分の娘が同じような目に合えば取り乱し怒りを露わにする。
唯一、金のために司法の力を悪用し加害者を援けた者だけが、ただ懺悔し赦しを乞う。ここは随分作り物めいていて、物語を現実離れしたファンキーな結末へ導く導線になる。
話が進み、主人公も過去へのこだわりを捨てて今の幸せを第一に考えようと「前向き」な姿勢に転じるものの、過去の記録を見せられて、それも叶わぬ夢だと悟る。
その先の転回は、見てのお楽しみ。
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女性が男性と対等であることを主張するにあたって、どれほど多くの障害が十重二十重にあるものなのか、この作品は整理してくっきりと見せてくれます。
合間々々に挟まれる、日常のちょっとした性差別のシーンがまた効果的。主人公の女性が意味なく絡んでくる男の車の窓ガラスをバールで無表情に叩き壊す様は、圧し殺された怒りの大きさを思わせます。
ジェンダー問題というのは、男性の側からは自覚がないところに問題があるようです。一方、女性の側も、男目線の文化の中で問題が見えなくなっているところがありそうです。
この作品は、そうした人々の盲目ぶりを告発し意識化させているのですが、衝撃的な結末を淡々と、少し哀愁さえ感じさせる明るい調子に包むことで、直視し難い真実を、誰にでも見られるようにしている凄さがあります。
様々なハラスメントには、強者の横暴という共通の要因があるわけですが、本作はそれに巻かれそうになるところを踏みとどまり、はっきり異議申し立てに転じる点で、まことに現代的です。
そして、犠牲になった人々の遺志を宿して受け継いでいこうという呼びかけにもなっています。
ともあれ、観ましょう。