「ワンダーウーマン 1984」
ガル・ガドットさん久しぶり~。でもこの人が演じられる役柄は限定されている感じがした。弱さを見せる場面はさほど上手くない。あくまでも強く、恰好よく、がこの人の持ち味。
冒頭のエピソードが一番ファンタスティックでよかったが、あとは映像はいいけれど、お話の組み立てが少し雑な感じ。
ただ、今回の敵が、悪役個人の野望ではなく、人々の願望そのものだというコンセプトは興味深い。
人は様々な願望を気軽に持つことができるし、それを正当化する理屈を捻りだすけれど、願望の対価を考えることはほぼない。望みがもし本当に叶ったら、あなたとあなたの周囲は本当に幸せですか、という難しい問いを、この作品は投げかけてくる。
本作では結局、ヒーローもディランも要人も大衆も、それぞれの願望を取り下げることで事態が収拾されるのだけれど、さてそれでは、人は望みを持つべきではないのか。見ているこちらは、その疑問に行き当って立ち往生する。
たいへんだ。
落ち着いて考えてみると、ここでも程度問題という解がありそうだ。死んだ者を生き返らせたりする究極の願望は、持つのは構わないが実現はしない方がたぶんいいのだろう。百万円が欲しいといった願望は、誰かから不法に奪うのでなければ、努力の目標としてはまあいいのではないか。その中間くらい、例えば生活習慣の違う異民族や異教徒とはできれば棲み分けたいという願望はどうだろう。ある種の政策として時間を掛けて対話を重ねながら実施するなら、必ずしもだめということでもないだろう。議論のあるところだ。
映画の中ではそうした願望がたくさん口にされるのだけれど、よく吟味せずに一緒くたにされて、人々が願望を持つこと自体が世を乱すかのような扱いになってしまっている。話が雑だというのは、そのことだ。
それにしても。と、また蒸し返すように考えてしまう。
生まれたときから恵まれた境遇の中で努力を重ねることができたダイアナと、スタートは平凡だがやはり努力して博士にまでなったものの、相変わらず野暮で冴えないバーバラとの葛藤は、どう考えたらいいのだろう。
ダイアナのようになりたい、というバーバラの願いを、簡単に否定できるのだろうか。その願いは、死者を蘇らせたいという大それた願望と同列に見て否定してしまっていいのだろうか。事実として、生まれたときから差があることを否定はできないけれど、それを、ただ真実があるだけ、と言い切ってしまう恵まれた側の言葉には、簡単に同意はできない罠を感じてしまう。
作りが雑なだけに、かえっていろいろ考える余地が生まれている、そういう作品に見えました。