「ある船頭の話」
作品の背景にいろいろ物々しい前置きがついている。
まあ、それはそれ。
自分としては、好きな方向性の作品。
言葉を使うのは、最も言いたいことがある場面のみ。
人物の背景や時代の空気はほぼ映像のみで描く。説明的な台詞はない。
清々しくていい。
人の声も清々しい。山あいの穏やかな川面に、人の声が少しこだまするように力強く大きく響く。
こういう効果は、ちょっとほかの作品では見られない。
日本の懐深い自然の記憶を呼び覚ます。
砂漠や草原のような物理的な広大さとは違って、むしろ限定された空間の中に、無限の広さを含んでいる、我々のふるさとの景色。フラクタルな重なり。
それは演劇的な空間でもある。
* * *
平均的な映画なら、この作品が扱った時間の流れを、説明的な台詞で背景として圧縮解説して、そこから何か発展させて事件を描くという感じになりそう。そうすると確かに、劇的な感情を呼び起こしやすいのかもしれない。よく見る典型だ。
本作はそういった速い流れに乗らず、ゆっくりと、何かが起動する部分だけを扱う。
思えば、流れ着いてきた少女の物語も、船頭の物語の以前にあったはずだ。
そうして、何も変わらなかったものが、玉突きのように動き出す。
それだけか、と思うかもしれないが、その細部の中に、大切なものが・・
あるかのように描いている。
あるのだろうか。
あったはずだ。
船頭は変わってしまい、元に戻ることはない。
我々もまた。
* * *
そういう感じの映画でした。
近代が肯定してきた中心的な価値と、それが捨象してきた価値との相克、と安易に整理してしまった瞬間に、何かが手からすり抜ける感じがします。
さて、大切なもの。それは何だろう。