「僕はイエス様が嫌い」
嬉しいこと、悲しいこと、楽しいこと、本当のこと、ちょっといけないこと、そういうものを、こどもたちがひとつひとつ積み重ねていく。その様子を純粋に描いている。演技もなく、演出も目立たないことが、かえって純度を高めていて、背景の純白の雪とあいまって、美しさをもたらしている。
イエス様は、ちょっとしたことなら願いをかなえてくれるのに、肝心の大変なときには姿を現さず、こども心からすれば役立たず、ということになるのだろう。嫌われて当然だ。
それで、ちょっと思い出したことがある。例の池袋の暴走事件、それから川崎の無差別刺殺事件。どちらもまだひと月も経っていない。
そういうことがあると、被害者は憎しみと怒りを誰かにぶつけたくなるだろう。被害者だけでなく、ニュースでそれを見る第三者の我々も同様だ。処罰感情などと呼ばれたりもする。
そうすると、憎しみは輪を描いて増幅されていく。それは果たしていいことなのか。
* * *
イエス様は、だから、そういう場には姿を現さない。現れないことで、憎しみや怒りを自分が引き受ける。他者に、それらの悪感情が向かないように。
赦すとは、たぶんそういうことだ。
この作品は、こどもたちを取り上げているけれど、実は大人にも同じように当てはまる。そういう風に私は観ました。