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2019.04.20

「幸福なラザロ」

どう受け止めたらいいのか、考えてしまいます。

実際にあった労働搾取事件にヒントを得たそうです。持たざるものは持てるものをも奪わるを地で行くような話。

ここでいう「持たざる」は、普通は資本などを指すと思うのですが、むしろ知識・反抗心・向上心などを考える方が、本作ではしっくりきます。

実際の事件は、貴族が小作人を搾取する構造ですが、映画ではさらに、小作人がラザロを搾取する入れ子構造を持ち込んでいます。さらに後半では、銀行などの資本が没落貴族を搾取するという構造も示されて、上にも下にも搾取の構図が拡張されています。世はまさに弱肉強食。

そんな中で、一番割を食うラザロは、しかしまるで気にしていないように見えます。あまりにも無垢です。

ほとんどの人は、そんなラザロに感化されるかというと、決してそんなことはなく、都合よく使い捨てます。また、最後になるともっと酷くて、暴力に訴えて排除しようとします。自分たちのルールとあまりにかけ離れたその純粋無垢を理解できず、まるで怖いものを叩くように。

ここで彼らは、自分たちが知っている世俗のルールを当てはめることで、自分の正義を納得させてもいます。まるで共通点のない、完全なすれ違い。


ただ、再会したアントニアは、確かにラザロに感化されています。無垢はあまりに無力なのですが、直接的な力はなくても、周囲に何かを伝え広めていくようです。ミームという言葉をこういうとき持ち出していいのかどうかわかりませんが、そういう広がり方、伝わり方です。

その先、広く永くこれが伝わっていくのかどうかは、全くわかりません。あちこちで、死に絶えたり生き延びたりの闘いがあるのでしょう。

ラザロ。無垢なあまり生きることができなかった魂。でもその魂は、生きるのではなく、”生かされて”いるのかもしれません。

なんか宗教っぽい感想になってしまいますが、まあそんな感じ。

ちなみに、「ラザロ」はキリスト教の聖人の一人で、蘇生・復活に関わるとされています。「ラザロ、出てきなさい」で死から復活した人ですね。すっかり忘れていました。

どこかで読んだ感想文で、イタリアの北南格差のことを書いていましたが、そういう取り方もあるのかもしれません。

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