「シンプル・フェイバー」
使われている小道具からは、昼ドラのような匂いがするけれど、
どろどろしたものはなくて、妙にさばさばしている。
のめり込まず、一歩引いて醒めた目で見ている感じ。
この醒めた感じは、語りのスタイルで強化されているように見える。
主人公の主婦(といっても未亡人)は、子育てと家事のビデオログをネットで公開していて、結構なフォロワーを集めているのだが、映画の筋書はフォロワーへの報告という形のナレーションによって進行する。
なかなか面白い手法で、じわじわくるものがある。
実世界の出来事や事件が、こういう形式にはめ込まれることで、どろどろ感が消えて、妙に他人事のように見ることができる。ような気がしてくる。
映画の観客が、あたかも劇中のビデオログのフォロワーになったかのよう。
ウッディ・アレンは、作中の人物が観客に向かって話しかけるという禁じ手をときどき使って賛否を巻き起こすけれど、本作のビデオログを使った手法は、やっていることは同じだが、禁じ手という気がしない。作り手は面白いところに気付いたな、という感じ。
ネットは世界のあらゆるところに影響を及ぼしているけれど、こんなところにも。と、変なところで感動する。
この手法のおかげで、本作のポストモダンというかデ・コンストラクションな感じが際立ってくる。昼ドラ的な構成要素を、伝統的通俗的な構築方法から切り離して、従来と微妙に異なる関係性のもとに組み立て直す。
そこに、独特な味わいが生まれてくる。
その辺りがこの作品の価値でしょうかね。
とても面白いと思います。
* * *
アナ・ケンドリックという女優さんは、これも独特な立ち位置を保っていると思うけど、本作の主人公にうってつけ。
もう一人のブレイク・ライブリーが演じる謎の女が、パワーエリートっぽい匂いを強烈に立ち昇らせているのに対して、アナの方は経済的な不安を抱える子育て主婦。従来ならこの二人は主人と召使くらいの構図で捉えられるところだ。
実際、お話の滑り出しは、そういう感じで進んでいく。大人と子供くらいの歴然とした差。
ところが、お話が進むにつれて、パワーエリートの方は化けの皮がはがれ、子育て主婦の方は意外な粘り腰と果敢な行動力を見せていく。
そして最後には立場は逆転。庶民は喝采といったところ。まさに脱構築っぽいじゃあないですか。
いや脱構築とはそうじゃない? まあ聞きかじりなのでよくは知りませんw
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