「万引き家族」
毎度ながら、いい映画は感想を書くのが難しい。
本作には、2つの要諦があると思う。ひとつは家族というものは何かという問いかけであり、もうひとつは、開かれているはずの社会の中で、自分たちの小宇宙に閉じて一緒に生きることの是非、といったところか。
同じ監督の「だれも知らない」は子供だけの閉じた世界を描いていた。その小さな世界の幸福感、綻び、破綻を、小さなエピソードを丹念に積み重ねることで見せていた。
本作はそれと地続きのような印象がある。子供だけでなく、今度は大人も交えた閉じた小宇宙。より大きな社会の余剰をもらい受けることで生活を成り立たせて、同じような幸福と綻びの予感と、そして破綻とを。
一貫して描かれているのは、一緒に生きていく者達の繋がりだ。本作では特に、子供だけの世界では描けなかった、より長く生きてきた者達との絆が多く挿入されている。生きるための知識の伝承、社会のルールと対処の仕方、価値観や世界観の伝達。あるいは拒絶。一方的なものではなく相互的な存在価値。
この監督はそういうものを描くのが本当にうまい。
「そして父になる」は残念ながら見逃したが、たぶん同じ文脈にあるのだろう。そういえば「海街diary」も、腹違いの末の妹を包み込んで生きる4姉妹の物語だった。
本作では、破綻の後を、単なる後日譚ではなく、本筋をまとめる締めくくりとしてじっくり描いている。共生する小さな集団が、より大きな社会のルールに包摂される様子があって、共に生きることと家族という言葉の本質と相違が浮き彫りにされる。
社会というものは、家族という概念と形式が共有されやすいためか、すべてをその枠にはめようとする。
破綻の後、施設で暮らすことになった男の子は、年長の男が自分を置いて逃げようとしたのかどうか静かに問う。男は、そうだと答える。家族であるために欠かせないものが欠けていたと、男は悟ったように見える。
男と一蓮托生で生きてきた女は、刑務所の面会室で、私たちではだめなのだ、親の代わりはできないのだ、と吹っ切れたように清々しく言う。
一旦は、家族という形式の前に、この小集団は解体され吸収されたのかと思わせる。
しかしその後、作り手はさらに続ける。
女の子は、生みの親の元へ戻ってどうだったのか。家の中でも化粧という仮面を脱がない女親、新しい服でも買ってやれば子供の歓心など簡単に買えると思っている程度の女を見ていると、生みの親こそ本当の家族という安易な考え、社会の規範に、再び疑問を抱かざるを得ない。
まだ感情をうまく言葉にすることができないほど小さなこの女の子は、それゆえに強い説得力を持って問いかけてくる。
人に欠かすことができない共生というものを体験した女の子は、家族であるはずの生みの親の元で、それを再現することは難しいと感じている。それでは家族というものは一体何だろうか。
作り手は、ものごとの両面を描いていて、それも杓子定規な手法ではなくリアリティをもって描いて、言葉にすることを拒んでいる。丸ごと呑み込んで糧にしろと言っているかのようだ。
こうした作品が、文化の地位が高い国で最高の評価を受けたということに、感慨を覚える。遠い国の人たちも、生活様式の違いを超えて、同じような感性を持っているということに、安堵と感謝を。