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2017.10.21

「女神の見えざる手」

毒をもって毒を制すという宣伝文句がぴったりくる快作。
あるいは、身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ、とも言う。

ここで前者の毒は、倫理や遵法精神を問わない手法を指す。まあ、小さな悪だ。

それに対して、設定されている大きな悪は、米国の銃規制反対派の思惑ということになる。本作は、大きな悪を制するために、小さな悪を容赦なく駆使する人間を描いている。

闘争の主軸は、銃規制法案をめぐる議会多数派工作のシーソーゲームだ。はじめは、主人公が力を貸す規制賛成派が快調に支持を増やしていくのだが、衝撃的な事件が起きて流れが逆転し、ついには主人公個人への粗探しから失脚へとつながっていく。

あれあれ不完全燃焼で終わるのかと思ったら。。あとは見てのお楽しみ。この辺り、エンタテイメントとして見せ方がうまい。

そしてもうお馴染みになったインターネットの劇的な活用。ネットが無かった時代には、こういう話はマスコミ産業の中でもみ消されてしまいがちだったのを知っていると、なおさら感慨が深い。

さらに、スパイ映画さながらの諜報活動。国家間の闘争という背景とは違う、新手の権謀術数が楽しめる。

* * *

ところで、毒を毒で制する構図は、大きくは主人公と規制反対派の暗闘を指すのだが、実は、銃規制反対派の主張そのものが、同じ理論に拠っていることに気付いただろうか。銃には銃で対抗するという、それだ。

この構図を、シーソーゲームの流れを変える転換点で使っているのが実に皮肉が利いている。どういうことか。

銃規制賛成派の女性が、少し頭がいかれた男に路上で銃を突き付けられ脅されているのを、通りがかりのタフガイが自分の銃で射殺する事件が起き、このタフガイを銃規制反対派が英雄として祭り上げて、キャンペーンを有利に逆転していくのが、お話の転換点になっている。主人公はこのあと、水に落ちた犬のように叩かれていく。

しかしもし、倫理的な理由でこの作品の主人公を嫌悪するならば、同様に、銃という毒を使って銃による脅しという不正義を制したタフガイの行為も、同じく嫌悪するべきなのではないか。毒をもって毒を制する方法論そのものが、アンフェアだと思うのならば、だ。

そういう矛盾を、この作品は銃規制反対派に問いかけているかのようだ。タフガイが恰好よく理性的に描かれているので、それに惑わされて、気付く人は少ないかもしれないが。

銃規制反対派が常に持ち出す理論が、実は、作品の中で銃規制賛成派が使った手段を問わないやり口と、同根の問題を孕んでいるぞ、と。これを皮肉と言わずに何と言おう。


その他にも、従来型の賛成派のフェアなクリーンファイトを、否定はしないが成果は出ない自己満足として退けるなど、まさに毒。その毒の背後に、正しい目的に常に照準を合わせ妥協しない潔さを含ませ、かつ、プロフェッションとヒューマニティについての寡黙な実例を、再逆転のとばくちに持ってきて、もー最高にいい感じの作品に仕上がった。

傑作と言っていいのではないでしょうか。

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