「三度目の殺人」
殺人事件の謎解きと、話の展開に従って少しづつ明らかになる人間模様に興味を持って見ているうちに、見る側は作り手の罠にはまって混迷を深めていく。この筋書から、いろいろなことを読み取ることはできる。
親子の世代間断絶であったり、司法というシステムの欺瞞であったり、産業の裏側の闇であったり、DVであったり。それぞれに反応する人はいるだろう。
それだけなら普通の仕上がりで、もちろん渋い色調の映像ともマッチして上出来なのだが、最後に、弁護士と犯人との対話の中で、地に着いた話の筋とは異なる次元の、あるものが浮かび上がる。
犯人は、自分は居るだけで周囲の人間を傷つけてしまうのだと言う。
弁護士は、あなたは器に過ぎないということかと問う。
なるほど、そういう人は確かにいる。
現実の世界で主体的に行動することはせず、しかし物事を見る目は曇りなく、見たものを正しく言葉にでき、そして悪意はない。
言葉の正しさと、悪意のなさが、意図せずに周囲の人間の心の奥底を表に引き出してしまう、そういう何か。神話の世界なら、それは神の目のような形で具象化されているだろう。
もしそこに、多少の心根の温かさがあれば、それはそれでひとつの美質だと言えるのだが、この犯人の場合はそうではない。
そこに悪意はないが、恐ろしいことに、善意もまたないのだ。
器に過ぎない、とはそういう意味だろう。
そうした器に触れた人間は、自分の願望を、それと気づかず相手の支援や配慮だと錯覚する。そこに映っているのは、自分に同意してくれる犯人の笑顔のように見えて、実はそうではない。そこにあるのは自分の鏡像だ。
自分という存在を正確に冷酷に写し出す鏡。これほど危険なものはなかなかない。
おっかないねえ。
んで、三度目は何だったんだろう。