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2017.04.02

「はじまりへの旅」

この作品には、3種類の家庭が登場する。
ひとつは、主人公たちのような、権力や富の蓄積に否定的で、小さな家族を中心に孤立した生活を営むもの。ヒッピーと呼ばれているけれど、まあ世捨て人の類。チョムスキーという人を信望しているようなので、アナーキストなのかもしれない。
もうひとつは、社会性の中に身を置いて、権力や富も正しく使えばよしとする肯定的な姿勢で生きるもの。言うところの保守という感じ。
三つ目は、その中間というか、曖昧にルーズに、世間の荒波を大過なくやり過ごしていくもの。世の中の大多数がここに入る。いわゆる大衆。
消費やマーケティングの現場では、大衆というものはなくなったことになっているような話を聞いた気がするけれど、生き方の根幹では、大衆というものはまだ根強く残っているんだろう。そういう種類のもの。ポリシーはあんまりなくて、勉強も鍛錬もあんまりしなくて、空気を読んで周りに合わせる。私だ。

お話は、世捨て人家族が、妻であり母である人の死を切っ掛けに、葬儀を巡って世の中と接触を試みる展開。割とありがちな筋書。

大衆的な一般家庭を風刺しながらも一方で、社会性のなさがどれほどのマイナスであるかを描き出す。純真な子供たちをダシに使いながら(笑)

結局、葬儀では、社会というものに全く歯が立たずに敗退。子供の中にも、自分たちの生活の大きな欠陥に気付く者が出て、ヴィゴ・モーテンセン演じる主人公のアナーキストは挫折を余儀なくされる。

まあ、それだと救いがなさすぎるので、最後に故人の遺志を最大限尊重する形で社会の抑圧に一矢報いて、いい感じでエンディングへ。妥協点を見出して、子供たちの未来に希望も持たせて終了。

よろしいんじゃないでしょうか。

ヴィゴ・モーテンセンの少年時代をwikipediaで読むと、この作品との親和性が高い感じがする。自身もかなり野性とか孤高とか自省を好むリベラルなお人のようで、自分を演じているようなものだったんだろうか。

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