「たかが世界の終わり」
圧倒されました。だからというわけでもないが、
敢えて、世評と違うことを考えてみた。
* * *
主人公は、都会へ出て、芸術の分野で成功した次男坊。自身の余命を知って、故郷の田舎へそれを告げに還る。
なんだお涙頂戴の余命ものか。
と思うと、これが違う。
いまでは実家は、父が亡くなり、母と兄、妹、そして兄嫁が住んでいる。そこへ帰ってみると、のっけからとげとげしい雰囲気。主には兄の態度から来ている。
田舎でしょぼい仕事をしている兄。実家を背負って立つ義務を生まれながらに課せられている。そこへ、都会の成功者として弟が帰ってくる。何不自由なく望む仕事を志して成功を収めた弟。心穏やかではおれない。
実家はいまでは実質、兄が仕切っている。家庭の誰も家長の意志に逆らえない。母でさえも。家長としては、別の道での成功者である弟は疎ましい存在だ。一刻も早く立ち去ってもらい、元の、自分を中心とした小世界を取り戻したい。
一方、母、妹は、普段の家長の抑圧に鬱屈している。家長との対立軸を意図せずもたらす成功者の帰郷は、その鬱屈の絶好のはけ口だ。兄嫁も、表面上は夫に口答えもしない従順な妻の顔の下で、やはり不満を積もらせている。が、それははっきりとした言葉や行動になりにくく、微妙な表情や仕草で表明するに留まっている。
これ、どこかの国の田舎とそっくりだ。
家長である兄のつっけんどんで自分本位な態度、やさぐれている妹の様子、兄嫁の面従腹背。母だけは、さすがに少し違う。日本の母親はこれほど直接的に言葉を使わない。我々はその曖昧さを指して奥ゆかしさと呼ぶのだが。
私には田舎とか実家というものがないから、本当のところはよくわからない。けれども、あちこちツーリングに行く中で、これとそっくりの構図を何度も見かけたことはある。田舎の人たちにとっては、都会から来る一過性の来訪者は、自分たちの家庭内・村内権力闘争のダシに過ぎない。来客をもてなそうとか、自分たちをよく見せようなどの意識は無いのが普通だ。もちろん例外は多々あるけれども。
彼らは、様々な慣習やしがらみに縛られている。その上家庭内ではお互いを束縛している。家長でさえ、他の家族から言い知れぬ圧力を加えられている。そして、都会というところは、それらから自由になることと引き換えに、孤独という荷を課せられるところなのだ。
この、一見いがみあっているように見える家族の兄と妹が、弟の帰郷の理由を話し合う短いシーンがある。そこでは、さきほどまでの諍いは嘘のように棚上げされ、弟を自分たちとは別世界のものとして見る空気が作られている。互いに対する愛憎は複雑に絡み合っていても、外に対しては一致結束しているのだ。
短い休戦を挟んで、再び闘争開始。日が傾く頃のデザートタイムで、ついに兄は、弟をとっとと帰らせるべく、強引に話を進める。少しでも弟を長く引き止めたい母と妹は激烈に反応。兄もヒステリックに応戦。
こんな状況で果たして、弟は、自分の余命について語り出せるだろうか。できるわけがない。たまさか帰郷してきた自由人の余命? そんな程度のナイーブな、”たかが世界の終わり”程度の話など、この激烈な生き地獄を毎日生きている人々にとっては、さしたる意味を持たない。
結局、家庭内の口論に夢中で突入した彼らを尻目に、誰にも見送られず家を出ていく弟の、憔悴しきった有様は、体調不良のせいだったろうか。むしろ、この生き地獄の凄まじさに圧倒され切った結果ではなかったか。
まあいいさ。と心の中で弟は思ったはずだ。せっかく束縛を断ち切る機会がやって来たというのに、いつもの内輪の争いにはまり込んでみすみすそれを逃すのも、また田舎らしい。飛び立とうとした自由は、扉に遮られ、行き場を失って地に堕ちた。最後のシーンの意味はそういうことだろう。
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もちろん、弟以外の登場人物の苛立ちを、弟に余命の話を語らせたくない愛の現れだとかの受け止め方はあるだろう。監督でさえ、インタビューでは「愛が」みたいなことをしれっと言っているらしい。
嘘を言え。
この超一級の映画監督が、愛などという単純で半面的なものだけを描いて満足するはずがない。最後のシーンでそう言っているじゃないか(笑)。
そういうふうに私は観ました。
「トム・アット・ザ・ファーム」に続いて、またまた傑作誕生。見逃さなくてよかった。