「沈黙」
原作は昔読んだ気もするけどよく覚えていない。本作は理解しやすいし、キリスト教の信仰についての考え方も納得できる。そして、映画作品としてもよくできている。
カソリックが世俗宗教で、西洋が世界を侵略する際の情報機関の役も結果的に果たしたことについては、特に異論はないだろう。この物語に登場する若い司祭は、まさにその先兵の一人だ。
子どもの頃からカソリックの世界・体系の中にどっぷり浸かって成長したから、世の中にはいろいろな考え方があることが、当初は理解できない。また、キリスト教世界の秩序を重んじ広めることを信仰だと勘違いして、頑なに思い込んでいる。
それが、遠く東の果ての国、キリストの威光など通じない世界にやってきて、信仰とは実は自己の内面のことであって、言葉や儀式ではなく、日常の行いの中にあることがわかってくる。いわば、本物の信仰に目覚めるわけだ。
日本の為政者から見れば、当初の司祭の態度は、西洋世界の秩序を日本に持ち込み、日本の現時点の秩序である幕藩体制に公然と異を唱えかねない危険な存在と映る。普段は温和なイノウエサマが、「クリスチャニティを理解していない」という司祭の反論を聞いて激怒したのは、そこに権力にたてつく気概と、拠り所としてのキリスト教を感じ取ったからだろう。それこそが、幕府が根絶やしにしようとしたものなのだから。
司祭が、表向きキリスト教的な諸々を捨てて、ただ己の内面に信仰を見出す分にはかまわない。現世利益を捨てさえすれば、内面には干渉しない。そういう枠組みを、イノウエサマ、ひいては幕府の側は繰り返し提示する。司祭は最後に、その枠組みに落ち着くことになる。
考えてみると、カソリックというのは矛盾に満ちている。聖書には「カエサルのものはカエサルに」という賢者の言葉があったはずだが、それをすっかり無視している。「右の頬を打たれたれば・・」も同様だ。ローマの国教になった以上は必然といえばそうなのだが。
一方、イノウエサマの方も、司祭をころばせるために、本人ではなく本人が護ろうとする無力な人々を責め苛むのは、いまの感覚では言語道断の卑劣漢だが、まあそういう時代だったということなのだろう。先人の努力のおかげで、いまの我々がどんなに安楽な生き方ができているか、知るよすがにはなる。
スコセッシ監督は、一応キリスト教世界の人だから、世俗宗教の暗い部分もよく知っているのだろう。それに加えて、日本人についてもずいぶん正しく理解しているように見える。
かなり評価の高い作品としてよいと思う。