「シークレット・オブ・モンスター」
ある子供の幼年期に、親や周囲の大人たちからどのような接し方をされたか。それだけを、執拗に描いている。
この子がその後、独裁者になるという設定は、少々飛躍しすぎている。むしろ、サイコキラーになったり、単なる異常者になったりする、としても違和感はない。
あるいはひょっとして、反エスタブリッシュメントの英雄になったとしても。
独裁者、という宣伝につられて観に行った者としては、その点で少し釈然としない。作品の流れもゆっくりで、飽きるかどうかぎりぎりの線だ。
そのゆっくりさが、ふとした拍子に、じっくりに変われば、まあ見られないこともない。波長が合わなかったのが、我慢して見ているうちに、どうにか波長が合ってくる。
そうして、この作品の描こうとしていることが見えてくる。
優越的な地位にある大人の無責任さ。
立場の弱い者に対する冷酷さ、傲慢。
それらの発露である「癇癪」
モンスターは、そういうものを見て、真似て、育つ。もちろん、外部の環境だけでなく、子供自身の中にも種はあるのだろうけれど。
そんなもろものが見えてきたと思ったとたんに、場面はかなり唐突に、群衆の喝采を浴びる架空の独裁者に切り替わって、そこで作品は終わる。
印象を強めるには、うまい手法かもしれない。
なんじゃこれはと思う観客がいても不思議はない。
まあ、そんな風な作品。
[追記]
いや、少し時間がたって、ちょっと違う見方をするようになったので・・
この映画のポイントは、家政婦が口にした恨みだ。
それこそが重要だ。
その恨みが、ポピュリズムの形をとって、既存のエスタブリッシュメントに復讐する。
そういうお話のように思えてきた。
そうすると、なんともタイムリーな作品ということになる。
しかもこれは、一時の流行ではない。
ひょっとすると時代の転換点なのかもしれない。
まあ、そんな風な作品でもある。