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2016.09.17

「怒り」

原作小説があるとのこと。そちらの意図をきちんと反映できていたのかどうか。
俳優たちの非凡な力量で、押し上げてもらっている感のある作品。
(以下、少し書き直しあり)


東京、千葉、沖縄、それぞれの地で、犯人とは全く無関係、お互いにも無関係な人々の、ドラマを描いている。
共通するテーマは、「信頼、裏切り、怒り、悔悟、赦し」だろう。これが二つの主体の間で交互にやりとりされる。

はじめは、裏切りと悔悟の間に「怒り」があるのをすっかり見落としていて読み違えていた。東京と千葉のケースでは、それが描かれていないので、わかりにくくなっている。想像で補うしかない。


作中に生で出てくる「怒り」といえば、沖縄米兵による少女暴行と、お話の発端となっている犯人の発作的な感情の2つだろうか。沖縄の方は、広瀬すずの頑張りのおかげで、感情はよく伝わった。ただ、それが怒りなのかどうか、読み取りにくい。単純な怒り以上に、複雑な感情がそこにはあるのだろう。

犯人の病的な発作の方だが、こちらも少しわかりにくい。壁に刻まれた文字は、この発作が怒りの表れだ、と明示している。少なくとも、この作品はそう言おうとしているように見える。少し言葉を付け足して、「底辺の怒り」とすれば、なんとなく恰好はつきそうだ。「やり場のない怒り」とするともっとわかりやすいか。

そう考えてくると、やっと全体像が見える気がしてくる。

東京と千葉のケースは、悔悟とそれへの赦しというキャッチボールを経て、和解へとつながっていく。
沖縄は、まだその段階に至っていない。それどころか現実は、火に油を注ぐような方向に向かいかねない。

「なぜそんな簡単に人(の言葉)を信じるんだ」
犯人はせせら笑う。
沖縄の人は、言葉の軽い元宰相の貌を、そこに重ねて見ているかもしれない。
その後ろには、我々本土の無数の人々の無関心が連なっている。
さらに、言いにくいことだが、沖縄の人たち自身も事なかれ主義だ。
外の異音に気づいていながらカーテンを閉める主婦のカットが、それをよく物語っている。


怒りは、原因を作った者の反省と悔悟を経てからでないと、赦しという出口へ向かうことができない。というのが、この作品の主張だろう。原始キリスト教のような無条件の赦しの概念はなさそうだ。

この怒りは、制度的に弱者が固定され再生産されつつある社会に対する、やり場のない怒り、でもあるかもしれない。沖縄が米軍基地の場所として固定化していることと、制度的な弱者が広く固定化しつつあることが、重ね合わされている、とも読める。この怒りは、矛先を向ける先が掴みどころのないものなので、やっかいだ。


それにしても込み入った作り方だ。
簡単にわかるように表現したくない、それだけで済まされない、そういう気持ちも、入っているのかもしれない。


このわかりにくさは、少し自分には重かった。
平易な言葉で定式に落とし込むことは簡単だ。冒頭で書いたように、5段階のキャッチボールがそれになる。

しかし、それ以外の様々な要素が絡みついて、問題をひどく解き難くしている。その状態が長く続いていることで、問題を解いてしまうことに一抹の不安感さえ生じているかもしれない。このままの方がいい、というような。


実力のある俳優さんのおかげで、いいシーンがたくさんあったけれど、話の組み立てのわかりにくさのせいで、いまひとつ残念感が残った。

いろいろ考えるには良い材料でした。

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