「ロスト・リバー」
"Lost river"とは、いわゆる末無川のことらしい。この映画では、先行きが無いという意味で使っている。
東京近郊にも、ダムをつくるために湖底に沈んだ町がいくつもある。水没する家と引き換えに補助金をたっぷりもらって、観光振興という理由を付けて豪華な公共施設をつくってみても、10年20年と経つうちに、寂れていく。
この映画は、米国にもあるだろう、そういう町が舞台だ。
町が寂れていくのはなぜか。
精神論を持ち出すのは気が引けるが、やはり半分程度は、住人の気持ちの問題もあるだろう。寄らば大樹とばかりに、補助金という名の麻薬に縋ってしまうのだ。やる気があって、しがらみのない者は、早々に見切りをつけて町を出ていく。残るのは、そうではない人々だ。
しがらみがやる気を奪い取るのか、やる気の無さがしがらみを言い訳にするのか、それはわからない。たぶん、鶏が先か卵が先かといったところだろう。
主人公の母子も例にもれず、マイナスのスパイラルの中で喘ぐように辛うじて生きている。
映画はその様子を、象徴的な映像を介して描いていく。生々しい現実感を省いて象徴化した表現が、逆に、こうした運命の町の希薄な現実感を、うまく表現しているように見える。
無気力な人々がいる一方で、それを牛耳る人々もいる。
こちらも奇妙に現実感のない、象徴的な描かれ方をしている。それが却って、彼らの悪辣、狡猾、残忍、貪欲をくっきりと浮き彫りにしているように見える。
ライアン・ゴズリングは、今回、監督として、この種類の空気をうまく醸し出している。うま過ぎてまるで誰かの体験談のようだとは言い過ぎだろうか。
主人公母子は、それぞれ、だめになっていく町の流れに押しやられていくが、ぎりぎりのところで踏みとどまり、発作的に抵抗する。梃子になったのは、息子や恋人に対する感情だ。身近な善き人の存在は、人に善とは何かを思い出させる。そして、これらの感情の発端も、短い象徴を使って語られている。
町の人々が水の底に沈めてしまったものとは何か。
彼らはそれを取り戻せるのか。
抵抗は、とりあえず功を奏する。
母子がこのあとどうしていくのかは、語られない。
しかし、切っ掛けは作られた。それは彼ら自身が起こしたものだ。
印象的な締めくくり方でした。
ファンタジーと現実の微妙な境界で、黄昏時を美しく妖しく描いた良作。