「大いなる沈黙へ - グランド・シャルトルーズ修道院」
カソリック版の禅寺みたいなものなんだろうか。昔NHKだかが「永平寺」という番組を作ったと思ったけど、そんな感じ。
3時間弱はやや長いかと思ったが、案外そうでもなかった。ただ、音楽なしというのが、結構はじめのうちは眠くなる。そのまま寝続けてしまった人が斜め前に何人かいたので、私だけではないのだろう。
映像のほとんどが、修道士の祈る姿と、修道院の風景で綴られている。ときどきアクセントに、修道士達のポートレートが写しだされる。ごく普通の顔つきの人たちだ。こっち見んな。
薪を割り、草を植え、時には鐘を鳴らし、聖なる日には集まって食事をし、そしてほとんどの時間を、独居坊で祈って過ごす。口をきくことは許されていない。
話さない、ということを続けていると、目や耳から入ってくるものに注意を集中することになる。なるほど、考えを研ぎ澄ますには効果がありそうだ。blogで放言ばかりしているのとは、1年も経てば天地の開きができるのだろう。
「火の後、静かなさざめきがあった。」
それで彼らは、その研ぎ澄ました何かをどうするのかというと、どうも、そのまま一生を終えるようだ。
最後の方で少しだけ、死期が近づいた修道士の映像も映し出されている。
いわゆる世捨て人の集まりだから、それはそれでいいだろう。年老いて目が見えなくなった修道士は、光を失ったことを、むしろ喜んでいる。魂をよくするためにはよいことだと。それは他人に依存して生きていることを自覚して、謙虚になるということだろうか。どうだろう。
老いは父なる神に近づくことであり、死は父の元へ還ることだから、よいことなのだ、ともいう。
そうはいっても宗教は、罪を感じて生きる人にとっては、死んだら地獄という道を説いて脅してもいるわけだから、なんだかなと思う。悪人なおもて往生すと言った宗教家も、稀にいたようだけれど。
この世捨て人の集まりが、映画化の話を打診されて、当初は「まだ早い」と言っていたそうだ。
16年経って、準備ができた、と返事をよこして作られたのがこの作品。
これは何を意味しているだろう。準備ができたとは、はたして彼らのことなのか。
「エリヤよ、ここで何をしているのか
そこを出て、山の中で主の前に立ちなさい」
それとも、準備ができたのは、その無言のメッセージを受け取る我々、の方だろうか。
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