「サード・パーソン」
わかりにくい映画。かつ宣伝しづらいオチ。ということで、これは興行的には少々難しかろう。以下ネタバレ。
自分がちょっと目を離した隙に、最愛の子どもが事故にあい、天に召される、というプロットは、どの作品で使われても目頭があつくなる。「ザ・ドア」がそうだった。あれくらいにあっさりと見せていればいい題材だ。
この映画は、それを見え隠れさせながら、幾重にも重ね合わせている。それが中心にあるのかと最後まで思わせる。タイトルも、亡くなった子どもを指すのだろうと思うだろう。
そうしておいて、実は異なるところに、いきなり話を落とす。
伏線はもちろんあった。その仕込み方がさりげなく巧みなので、こちらは綺麗に嵌められて、腹は立たない。
あるいは、このオチはおまけで、それまでの架空の男女の描写を、作り手は見せたかったのかもしれない。けれども、作家を批判する編集者に、それらのストーリーは駄作だ、言い訳に過ぎない、と言わせているのだ。これは強烈な自己否定というか、作品の大部分を駄作だと、作中で言っているようなものだ。なかなか思いきりはいいと言える。
それらが文字通り露と消え去った後、最後にいきなり表に出てくる主題は、子供の不慮の事故、親の罪の意識というテーマに負けず劣らず。
それが何かは・・芥川龍之介の「地獄変」とだけ記しておきたい。
リーアム・ニーソンは、こういう雰囲気の作品が似合う。華々しさとは無縁で、しかし心の襞にいろいろ隠し持っている曲者の役。