「鑑定士と顔のない依頼人」
様々な物語の分岐を孕んで期待と想像が膨らむ。芸術品の真贋を見る技に、一生を捧げ、時には利用して生きてきた男が、愛の真贋にどう向き合い、どんな結末を迎えるのか。それ以上は言えない。以下ネタバレは見ずに劇場へ真っ直ぐ行くのが吉。
観終わってみれば、こうこうこういう作品だと一言で片づけるのは簡単だ。それくらい単純なお話。けれども観ている間は騙される。私はてっきり、この秘密めいたヒロインは実はオートマトンなのではないか。開かない壁の向こうでぎりぎりと油の血を流しているのではないかとさえ、前半では思っていた。江戸川乱歩の奇怪な世界。その想像だけでたっぷり楽しめる。
素顔が見えるようになってからは一転、老いらくの恋のお話なのかと思わされる。誕生日でさえ、一流レストランで一人ろうそくを見つめるしかない孤独な仕事師の、魂の解放を見せてくれるのかと。実際、終わり間際まで、ほとんど騙される。
もちろん、注意して見ていれば、彼の裏仕事の相棒や奇妙な機械修理工の目の光に、怪しさを感じないではない。姿を盗み見られているとは知らないヒロインが電話をするときの話ぶりも、病気という割にはややくだけすぎている。舞台となったヴィラの向かいのバールに、最後まで通して姿を見せている奇怪な小人は、鍵は常に目の前にあると示している。
しかし、そうした些細な疑問は、誂えたように挿入されるシーンでことごとく目を逸らされる。相棒の怪しさには、貧すれば鈍すを示すエピソードで。修理工の怪しすぎる目の光には、仕事の腕と職人魂を見せつけることで。小人は小人であるというだけで。
ヒントをちらりと記憶に刻みつつ、うまく話を逸らせておくことで、結末の衝撃をいや増している。
そしてなにより、ヒロインの病気が錯誤の最大要因だ。開けた場所や人との接触を極度に恐れるという奇妙な病気。その激烈でヒステリックな反応は、他の些細な引っ掛かりをあっさり押し流す。主人公にとっては、それが親近感、同族意識を刺激し、次第に深く罠にはまっていくことになる。それを彼は愛と錯覚する。もちろん観ている方も彼と一緒に。
はまりはじめた後の話の展開も、念が入っている。少しづつ段階的に打ち解けていく様子、ずいぶん親密になったところで鑑定士を襲う突発事故、その際ついに病気の恐怖に打ち克って彼女が見せる献身。これで騙されずにおれようか。
そこで仕舞かと思えば、さらに失踪事件を重ねて、彼女の生い立ちをより深く彼の心に刻み込む。抵抗は無駄だ、と計画者たちはほくそ笑むかのようだ。
こうして老人は幸せな夢に嵌められる。そして結末へ。
* * *
鑑定士という仕事は、真贋の判断によって価値を生み出し、あるいは損なうものだ。その彼が、真贋を偽って不正に蓄えたコレクションを、愛の真贋の判断を誤ったがゆえに失う破目になったのは、まことに皮肉というべきだろう。その不正な行いが、芸術作品に対する彼の紛れもない愛ゆえであってみれば、皮肉を通り越して哀しみさえ覚える。歯車に彫られた18世紀の伝説の機械職人の銘は、彼にとって鑑定という一生の仕事の始まりであり、終わりでもあった。
見ようによっては、これは美人局に引っ掛かった哀れな老人のお話に過ぎない。しかしそれを、仕事だけに生きてきて、その道で一流になった老人の心の陰影にまで踏み込み、価値ある作品に仕上げたのは見事と言うしかない。一生をかけて築いてきたコレクションと引き換えに彼が得たものは、はたして単なる失意だけだったのか。わずかひとときの記憶は、あるいは残り少ない彼の人生を、これまでと比較にならない輝きで満たすことになったのだろうか。観終わってみれば、初めに戻ってまさに江戸川乱歩。ラストで次第に引いていく、いつまでも続く妖しく哀しい機械仕掛けの色合いはどうだ。
久しぶりに、「面白い」と言える作品を見せてもらいました。
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