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2011.04.16

「キラー・インサイド・ミー 」

アメリカ文学の傑作だそうな。映画でそれが十分表現されたかどうかはよくわからない。普通ではないこの主人公を、映像の流れだけで理解することは難しいように感じた。以下は作品を補う想像とネタバレ。

性愛と暴力が、この主人公の中では分かち難く結びついている。子供の頃の家政婦との体験、あるいはそれ以前に原因があるように描かれている。罪の償いは、孤児として引き取られてきた彼の義理の兄弟が背負った。その兄弟は工事現場の事故で死んだが、事故は陰謀だと考える者もいる。
という具合にものごとはどろどろと絡み合って複雑だ。そして、対照的に、若い保安官助手の行動は唐突で吹っ切れている。

西テキサスの田舎という、子供の頃から互いに顔見知りで、過去の行いまで含めて知られているという環境がどういうものか、アノニマスな都市生活者の私には十分わかっているとはいえない。話で聞く閉塞感、諦念、倦怠感などは、聞けば納得はする。主人公の声音から、容易にそれを聞き取ることができる。

そうしたネガティブな要素は、田舎という舞台設定ではありふれたものだが、この映画ではひとつ、新しい発見があった。それは、寛容と自責とでもいうべきものだ。

事件の犯人が主人公ではないかとの疑いが次第に広がる中で、彼の上司である老保安官は、彼のことを子供の頃から表も裏もよく知っていると、二人きりの汽車旅の中で言う。そして、若者の罪が動かし難いものになったとき、老人は自死を選ぶ。これは、一見さりげなく補助的なエピソードとして挿入されているが、私には、この映画で最も重要な通奏低音に思えた。

田舎の生活がマイナスの要素ばかりで永続するはずがない。その裏返しのプラス要素があるはずだ。老保安官が示した態度と行為に、それが顕れているのではないか。

若い殺人犯の異常さを、老人は寛容の精神で受け止めているのかもしれない。疑いながらも、そういうところがある奴だと知っている。知っていながら赦しているふしがある。

そんな老人が自死を選んだのは、若者の罪の一端は自分にもあるという自責の念からではないか。個の境目を越えて他者を侵食することが普通である生き方。他者の行為を己のものと感じる田舎に特有の心情があるのではないか。

普通に考えればこの老人は、裏切られたと口に出して、罪をすべて若者に帰することができたはずだ。しかし、そうしなかった。なぜか。
若者の一部は、とりもなおさず自身の一部でもあると感じているからだ。

アメリカという国は、理念を出発点として構築された人工国家だと言われることがある。しかし、この映画を見ると、そればかりではないようにも思えてくる。

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