ソーシャルについての雑記
来年にかけて、国内ではソーシャルが話題になりそうな気がする。それ関連でだらだらと雑記を書いていたら長くなったので、抜き出してこちらに移動。はじまりは、一見関係ないところから入る。
あちこちで反応があるこの記事だけど。
以前、通信の国際規格は、それを決める委員会での人脈で決まるような話を聞いたことがあった。
「もっと大きな市場を狙え」とか「経営者の判断ミス」とか、経済評論家のように言うのは簡単だけど、国際規格がどのように決まっているか、その実情について、現場に近い専門家の意見が聞きたいところ。
と思ったら、日経の経済教室に坂村先生の寄稿が。なるほど、そういう文脈でみれば、キャリアのガバナンスの強さが、日本メーカーのガラパゴス症候群罹患の原因とは言える。
ではなぜ、キャリアは自分の通信規格を世界標準にできなかったか、と考え始めると、やっぱり国際規格が決まるルートの実態はどうなっているか、という話に行き当たる。
それはそれとして、GoogleとAppleの体質の違いに言及していただいたのはよかった。以前も書いたが、私がAppleの製品やサービスはオサレだなと思いつつ、いざ購入の段になると他メーカーのややダサイものを選ぶのは、Appleのその体質を嫌うから。ちなみに、i-modeも同じ。もちろんmixiも。ネット的ではない。
ここで、ハードとかソフト(サービス)とかの分類は無関係。
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で、話をSNSに移す。
facebookについても、Appleと同じ体質を感じている。
通信キャリアであれば、日本の場合は、通信の秘密を守る義務がある上に、NTTには、自分たちは公器であるという自覚が感じられたから、囲われてもそれほど不安感はなかった。
しかし、その制約と自覚がない企業に個人情報を握らせて囲われるのは、相当な不安感がある。単なる商取引であれば、一取引ごとにセッションが終了するから問題ないが、SNSのように、下手をすると一生付き合うようなメディアに対して、どこまで個人情報を握らせてよいものか、よく考えてみる必要はあると思う。
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だらだらと書いてしまった。この問題周辺は非常に刺激的だという気がしている。もう少し考えをまとめたいところだが、私は基本的に、他人や社会とべったりの関係になることを好まない。一定のプロトコルのもとで、相互作用する程度のドライな関係を維持したいと願っている。
そういう人間にとっては、Google的なアプローチが好ましく、Appleやfacebookのような体質はうれしくない。ということは言える。
参考
「ソーシャル化が進む世界でビジネスを行ううえで必要な3つのポイント」
オプラ・ウィンフリーは全米一知られているテレビ司会者ですが、自分がブランドであることを受け入れられず長年苦しんだものの、ついにブランドとしての自分を受け入れる決意をしたそうです。同じように、人からどう見られるかというよりも、ソーシャル化した世界の中で周囲が抱いている自分へのイメージと共に生きることを選択することが、ビジネスにおいては重要と思われます。問題の核心は、人はビジネスだけで生きるのか、ということ。
あるいは、「人は、ビジネスパーソンというペルソナだけで生きるのか」、ということ。
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