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2009.10.03

「あの日、欲望の大地で」

原題は"The Burning Plain"。時間を隔てた短いシーンがモザイクのように嵌め込まれている凝ったつくりを通して、シンプルな、あまりにもシンプルな想いが真っ直ぐに伝わってくる。邦題に付いている”欲望”から想像されるような醜さや肉の重みは、このモザイクのフィルターを通して分解、浄化されていて、むしろ最後には、何かの高みへと昇華したような、透明な後味が残る。小品の趣にも関わらず、傑作の部類に入るだろう。
この味のある清涼感は、実際に観てみないとわからない。映画館でじっくり観たい価値ある作品。以下ネタバレは読まないのが吉。


この作品の凄さを感じた点を二つ挙げておきたい。

ひとつは、科白の使い方。
お話しも進んで、女の子が母親である主人公を受け入れる過程で、この子が言う科白の生かし方が凄い。父の事故以来、急に大人びてくるこの子が、育児放棄の母親を受け入れていく過程で言う科白は、どれも短くてごく普通の言葉だ。また、「許して」「OK」のような直接的な科白でもない。

ところが、その言葉がひとたびその場面に置かれてみると、モザイク状に並べられてきた他の多くの場面を受け止めて強い意味を帯びる。母娘が和解に至るまでの短い曲折を、的確に表す。というより、科白が和解の過程を先導しているかのような錯覚さえ覚える。
腕の傷の伏線が生きる場面、一夜明けて病院へ向かうタクシーを降りる場面、父親の容体が回復して面会に赴く締め場面、それぞれで少女が言う科白の連なりが、特に印象に残る。

ふたつめは、ごく短い映像の使い方。
主人公の回想をフラッシュバックする普通の使い方は多いが、物語の最後に挿入された主人公の母親の短いカットは、何を意味しているだろうか。窓の外、遥かな空を見つめるまなざしに、観客は何を読み取ればよいのだろうか。

ここまで、主人公の母親の気持ちは誰も代弁する者がいない。それが、この一瞬のカットで一気に溢れ出した感がある。而してその女はとうにこの世を去っているのだ。この切なさといったらない、のだが、ここにも透明な癒しがあって、観ている方は不思議な感覚に包まれる。
その母と同じになりたくないと、どこかの場面で言った主人公は、しかし同じように窓の外の遠くを見つめる日々を送っていた。同じとは、母のどの部分を指していたのか。

そうした複雑な思いを、最後の場面で、少女のさらりと短い科白が全て回収して、それに応える主人公の晴れやかな顔に繋がる。

絶妙です。


主人公シルヴィアを演じたシャーリーズ・セロンは言うまでもないが、その10代後半を演じたジェニファー・ローレンスも好演。女の生き方を描くこの映画で、その萌芽とも言うべき思春期の役柄を十二分に演じ切った。シルヴィアの母ジーナ役のキム・ベイシンガーは、表面は豊かだが内面は砂漠のような日常を表す印象的な風景の中で、幸福で満たされた時間を目一杯表現した。この生命感や幸福感は、ありきたりの道徳や倫理に対抗するだけの力があり、窓の外を見つめる女たちの複雑な思いに、リアリティと深みを与えている。

なんだか凄い映画を観たという気持ちと同時に、この種の映画にありがちな、何かを背負わされたという負担感が、驚くほど少ない後味の良さも、たいへん印象に残る。

傑作。

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