「それでも恋するバルセロナ」
休暇でニューヨークからやってきた、硬い感じと奔放な感じの女二人のアバンチュールが筋の基本だが、相手の男はたった一人という微妙さ。おまけに途中乱入の三人目が、男の元妻。滅茶苦茶どろどろ最後は破滅を予想するのが、普通の日本人の感覚だけれど、そういうわけでもなく、高揚感や平穏を経験した後、なんとなく夏は終り日常に戻る。これがあちらの一般的な恋のお話なのかどうか、だれか説明して欲しい。以下ネタバレ。
この映画の中には、様々な恋の形がある。お堅い女ヴィッキーの一夜のよろめき。自分探し中で無計画な女クリスティーナの直観的な恋。激情家で性格破綻気味のマリア・エレーナの、副作用の多い恋。いや、夫婦愛。三人三様だが、それぞれの特徴をくっきりと際立たせて描いている。落ち着いた芸術家の男ファンも、癖のない言動でどのケースにも慌てず騒がず対処している。このあたりはわかりやすい。
ところが、この映画はこれだけで終わらない。途中からはじまる、クリスティーナ、マリア、ファン、三人の共同生活は、どう受け止めたらいいのだろう。確かに、こうして描かれてみると、この調和にはすんなり納得できるものがある。
特に、マリア・エレーナの激情が、クリスティーナの存在によって生産的な方向へ向けられたところは、まるで妹思いの姉の姿を見るようだ。ファンは、マリアとの結婚生活について、なにかちょっとしたものが一つだけ欠けてうまくいかなかったと言ったが、おそらく、マリアに必要なのは妹のような保護対象だったのだろう。才能も未だ開花せず自分探し中のクリスティーナは、この役にぴったりはまった。
とはいえ、そのクリスティーナとファンとの男女関係については、やはり疑問はある。マリア・エレーナがそれを受け入れたのは、自分にとってクリスティーナという存在の必要性が、嫉妬を上回ったということだろうか。マリアの独占欲は案外小さいということもあるかもしれない。
ともあれ、こうしたことは、分析的に見るものでもないだろう。関係は微妙なものだし、理屈を考えれば後付けになりがちだ。ただ、この映画から受ける感触の意外なリアリティを楽しむに留めておくのがよさそうだ。
三人の女優さん、クリスティーナ役のスカーレット・ヨハンソン、マリア・エレーナ役のペネロペ・クルス、ヴィッキー役のレベッカ・ホール、いずれも、三様の恋の特徴をくっきりと演じてよかった。ファン役はハビエル・バルデム、あの「ノー・カントリー」の不敵な暗殺者を演じた人だ。今回は懐の深さを出していて、これもよかった。そして、お話しの進行を彩るバルセロナの街の美しさ。音楽とあいまって、恋愛映画にはうってつけの背景となった。
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