不戦の理由
日本人がこの半世紀で失ったいちばん大きな社会的能力は「負ける」作法とたしなみである。より正確に言うと、他人がある一つの評価軸で優れていることを容認する度量を失った、というあたりか。評価軸なんていくらでもあるのだけど、なかなか人の視野というのは広がらないし、嫉妬の感情もなくならない。
上田に立ち寄ったとき、近郊に「無言館」という展示施設があるのは知っていた。知りつつも、見にいくのはやめておいた。その理由は、上の記事と多少関係があるかもしれないので、簡単に書いておきたい。
私達が、戦争はもうこりごりだ、と思う理由は何か。
戦争の被害はこんなにひどいからいやだ、という点が、これまでは第一に挙げられてきたように思う。戦争体験の悲惨さを展示して後世に残そうというものは、そうした意図で不戦の誓いを新たにするために作られている。と思う。
しかしながら、では、戦争でいい目をみられるとしたらどうなのか。そんなことは有り得ないとは言い切れない。前線はともかく、後方で戦争の果実を受け取って目や耳を塞いでいるうちは、戦争は悲惨だとの認識は薄いはずだから。勝った戦後ならなおさらのことだろう。
あるいは、戦争の実体験が風化した後はどうなのか。そうさせないように展示館などを作っているのだとは思うけれど、どうやっても実体験世代とその後の世代とのギャップは埋めようがないだろう。
そうしてみると、悲惨さを不戦の理由に据えることは、必然性や持続性が薄いように思える。
これまでは、それでもよかった。2世代くらい前の人たちから直接体験談を聞いて、戦争を憎む気持ちを持つことができたから。でも、これからは難しいだろう。戦争があったことさえ知らない若者もいるように聞く。
なにより、悲惨な目に会う(会った)からやめておこう、という理由は、例えば坊主が見たことも無い地獄のイメージを振りかざして人を脅すに似て、要するに脅迫であるに過ぎない。そのやりくちは、どうも好きになれないし、何か重要なものを取りこぼすように思う。
不戦については、何かもっと前向きで普遍的な理由が、これからは必要になると思う。それは、表向き正義の名で行われる戦争や、表向き防衛の名で行われる戦争についても、納得のいく結論をもたらさなければならない。
それは、どこか深いところで、評価軸の多様化と繋がっていそうな気がする。
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