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2008.05.06

「アイム・ノット・ゼア」

音楽にはまったく明るくない。この5年ほどで聴いているのは、iTSのお勧めを除けば、Windhom Hill ばかりという日陰者だ。なので、ボブ・ディランという人とその音楽をよく知らない。そういうわけで、この映画はよくわからなかった。ネタバレもなく、以下流すように記録。

構成はユニーク。世間に露出するボブディラン像をケイト・ブランシェットが演じるのと並行して、いろいろなエピソードやディランの各時代を切り出して、それぞれを別の俳優が演じている。

面白い台詞はあった。印象に残ったのは、TVキャスターとの確執の中で、ディランが彼を指して、”PROTEST”と吐き捨てるように言っていたところ。
ディラン自身は音楽家であって、見たまま感じたままを音楽にのせるだけであって、政治屋でも政治活動の象徴でもないのに、という苛立ちが感じられた。

そのTVキャスターが、ディランの生い立ちを、普通の中流家庭の出であって底辺層の出などではないと暴露したときのディランの反応も興味深かった。ここを、台詞でなくケイト・ブランシュエットの表情だけで表したのはうまい。観ている私の方は、例の「作家は作品によってのみ評価されるべき」という話しを思い出した。

あの考えはもっと普遍性をもって語られてよい。例えば、「アスリートはそのプレーの記憶と記録によってのみ評価されるべき」とか。音楽家であれば、その音楽によってのみ語られるべき、というところか。

しかし映画の中のディランは、ここで沈黙する。彼自身は自分の出自にコンプレックスを持っていたのだろうか。あるいは、出身による差別(逆差別)を下世話な世間はことのほか喜ぶということを知ってもいたのだろうか。

どうもこのあたりは、映画の中でひとつのターニングポイントだったような気がする。
あとは、離婚騒動とか、道路建設反対運動とか、あって、最後はなにか締めの言葉があったようだったけど忘れた。

やはり、ディランの時代をよく知っている人が見てこそ価値のある映画なのだろう。


それにしても、ケイト・ブランシェットのハスキーな声、いいなあ。

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