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2007.01.03

「リトル・ミス・サンシャイン」

小さな娘のミスコンテストに出場して優勝したいという夢を叶えるために旅する家族のお話し。

勝ち組・負け組み論は昨年よく語られたけど、その言葉の本当の意味、勝ち組と負け組みを分ける本質的な違いは何か、この映画の前半はそれを描いている。旅の中で、じいちゃんに簡潔に言わせているのがそれだ。どう言ったかは見てのお楽しみ。

そしてこの映画の後半は、じいちゃんの言葉を底流に感じさせながら、最近流行りの規範意識というものとからめて盛り上がっていく。以下ネタバレ。

 

規範意識という言葉は今年の流行になりそうだけど、それを重視する人からは、この家族は眉をひそめて見られてしまうかもしれない。ちょうど作中で、ミスコンの事務局や大部分の参加者がそうするように。

さほど大それたことをやっているわけではないのだけど、少なくとも、おじいちゃんが活躍していたであろう60年代頃と違って、今の時代にあっては、この家族は空気が読めない奴という烙印を押されることはほぼ間違いない。

そこがこの映画の主張になる。多少の規範などよりも優先すべき原則があるだろう。それこそは、じいちゃんが言う本当の勝ち組の意味、つまり「挑戦する気概」だ。

振り返ればこの作品は、冒頭からずっとそれを描き続けている。じいちゃん以外の家族の面々の誰もが、自分が持っている規範意識や見栄や常識だと思い込んでいるものと、この原則との間の葛藤に悩むのだ。

それは内面の葛藤としてだけでなく、外部からの圧力としても描かれる。臭いものに蓋をしようとするミスコンの事務局側の登場人物の言動などは典型的な反応だろう。なるほど、規範意識というものは見方によっては、挑戦する者を封じ込めようとする保守的な意識のひとつであるかもしれない。

 

コンテストの結果は、当然ながら優勝にはほど遠いものに終わる。田舎者の挑戦者達は、二度とコンテストに出場しないことと申し渡されて家路につくことになる。

しかし、その家族のふっきれよう、ひとつ壁を乗り越えたかのような終わり方が清々しい。考えてみると、挑戦する心というものは、米国という覇権国家を成立させた、そしてさせ続けている力の源であるかもしれない。大人しく戦略無きわれら日本人が忘れがちな荒ぶる魂でもある。

この映画の骨は、荒ぶる魂の発露としてのチャレンジだが、それだけでなく、家族の愛情や他者への思いやりなどを交えながら、不恰好でも味のある人の生き方を見せている。
割とお勧めできる一本。


※作品とは関係ないのだが、例のMPAとかいう団体が昨年垂れ流していた、海賊版撲滅キャンペーンと称して客を犯罪者であるかのように擬する映像を、また復活させていた。映画作品を観る直前の盛り上がった雰囲気を平気でぶち壊すこの団体には、作品を鑑賞するための環境を客に提供するという意識は皆無であるらしい。
極めて不愉快だ。

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