「長い散歩」
いじめや教育問題がクローズアップされた年の最後に見るには、まことにふさわしい映画だった。泣ける。
かねがねこうした問題について私が考えていた答えとぴったり一致するのも面映いものがあった。案外この意識は広く共有されているのかもしれない。
少々脱線するが、そのシンプルなはずの答えがなかなか一本化しないのは、いたずらに事件化させることが商売になる報道機関と、人と違うことを言うことが商売である評論家が多いためだと、私は勘繰っている。深刻ぶった仮面を付けて人の不幸を喰いものにするだけなら、さっさと退場してもらいたい。
さて、以下はネタバレ。
昭和の昔。今ほど管理社会の弊が深刻化していなかった頃、近所には、なんだか暇そうで何をやっているのかわからないおじさんというものがいて、子供の遊び相手などを時々していたものだった。それは、家庭や学校でめげることがあったときの逃げ場になっていた。どこでもそうだったかは知らないし、私自身は世話になったことはないが、そういう人が居たのは知っている。
大人にとっては忙しい身過ぎ世過ぎのなかでつい出てしまう一言や仕打ちであっても、こどもにとっては大層いたたまれない扱いになってしまうことが、よく起こる。そういうときに、浮世と少し距離をおいた、世間的には少々ずれた大人というものが、子供にとっては格好の逃げ場、調整と再起の場になる。こどもが社会化するときのストレスを乗り越えるための仕掛けがあったのだ。
この映画の主張は、ひとことで言うとそれだ。現代風の問題意識を随所にちりばめてはいるけれど、それらに対する答えはただひとつ、「ああいう人が必要なんだよ」の刑事の台詞に集約される。
昔との違いは、そうした「ああいう人」が、昭和であったなら人情味ある世話好きおじさんで済んだかもしれないものが、いまや有無を言わせず犯罪者に分類されてしまうことだろう。
映画は、それが避けられないことを示しながら、最後に、そうした扱いに対してよろけながらも再び立ち向かっていく緒方拳の背中で終わる。私にはそう見えた。
彼、安田松太郎は、その役をこれからも繰り返し引き受け続けるのだろうか。
と、ここまでが、この映画のメインストリームだ。だが奥田監督の問題意識はそれだけで終わっていないように見える。もうひとつの難しい要素、「わたる」という青年が登場する。
この青年の登場から死に至る過程は、少々唐突な感じはする。役割はもちろん、日本村の外からの目線を盛り込み、かつ、死というテーマを身近に引き寄せることだ。それはこの映画にずいぶんと奥行きを与えてくれる。
しかし本当にそれだけか。
この青年を自殺に到らしめる一方で、少女の方は最後に松太郎の手で生き延びさせる結末は、90年代に発生したニートとそれ以降の世代との、それぞれの異なる未来を暗示してはいないだろうか。
考えすぎかもしれない。私はそれを容易に口にはできないと感じている。
ひとつの救いは、この青年が、松太郎のような老人に比べてはるかに簡単に少女と気持ちを通わせていたことだ。一見窮地に追い込まれているこの世代だが、老人松太郎の世代とはまったく違うコミュニケーションスキルが隠れているのかもしれない。
そういう願いを込めて、私はこの映画を観たい。
松太郎役の緒方拳、刑事役の奥田瑛ニはいつもどおり。緒方拳は、動作で演技するより表情で演技する人だと思うのだけど、今回もそれは如何なく発揮される。奥田瑛ニは俳優の印象が強いけれど、この映画の奥行きを考えると監督としてもやはり注目されるだけのことはある。
で、この少女役がまた凄い子役の登場です。大人を睨み付けるあの目はどこで覚えたんだろう。私にその目を向けないでね(笑)。
もちろん、ほかの映画でも変幻自在の演技を大人の俳優と同じように見せるということではないだろうけれど、しかし、この子のおかげで、この映画は完成を見た、といってもまったく過言ではありません。
それだけのために観てもいい一本。
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