集団知の責任
これからは、大半の職業において、技能が高速道路化して、気のきいた素人にも勝てなくなる。だけど、それでプロフェッショナルが無意味になるかと言うと、ぜんぜんそうではなくて、一定の職業倫理を持ったプロフェッショナルは、ますます必要とされるだろう。平たく言えば「責任を負う」のがプロフェッショナル、ということになるだろうか。
で、次が重要。
職業倫理を持つということは、ハウルのような軽やかさを失うということで、叩かれるマトになるということでもある。その痛みを引き受ける人に対して、社会は一定の信頼を持つ。その信頼が無ければ社会は維持できないだろう。集団知に欠けているのはおそらくその信頼であり、それだけである。集団知という概念は、ともすれば、「集団無責任体制」などと言われてきた日本人の得意な意思決定の仕組みと並べて見られがちだ。そのとおりでよいのかどうか。
上のエントリでは、
そういうプロフェッショナルがいてはじめて集団知が機能するのだろう。と、集団知に責任までは求めないとしているように読める。
ところで、今朝テレビをZAPしていたら、霞ヶ関改革を唱える若手のお役人達が集団でフジテレビに出演していて、何を言うのかと思ったら
きちんと方針を決めてくれれば私たちは選択肢をだせる能力はありますなどと宣まっておられた。およそ改革者を自負する者の言うことではない。ていうか、大変失礼ながら、みなさんのオーラ、気持ち悪すぎます。
「集団知」というものを、それと同程度のものに貶めたくはない気がするのだけど、どうなのでしょうか。
[追記]
「ハウルの軽やかな獣性とソフィーの清らかな鈍重さ」
集団知は、固定した視点や特定の原理に縛られません。常に、多面的に物事に対処し、軽やかに新しい立場を創造し続けます。そして、それがスタティックな物事を解体する力となった時の作用には、恐しいものがあります。その破壊的な力を留められる力はありません。
(中略)
集団知と対置される個人としての人間は、ハウルの前のソフィー婆さんのように鈍重で頑固です。しかし、個人としての人間がいることで、集団知に目標が設定されます。そのような存在だけが、集団知から獣性が発現してしまうことを留める力を持ちます。
(中略)
そして、ソフィーはハウルと本当の意味で出会い、ハウルは「守るべきもの」を発見し、自らの獣性を制御することを覚えるのです。
集団知は純粋に力である、と。そして、目的を見つけ出すことで、力は制御され得る、と。そして目的は個人の中に見つけ出せる、と。うーん。学校の教科書にあったこれと少し似ているようですが、もっと現実的で分かりやすいですね。
ひとつ、問いだけ立てておきましょう。
そのような集団知の力を利用したいと思う者は多いと思います。よい意図もあれば悪い意図もあるでしょう。中には巧妙に意図を隠す者も。それどころか、集団知を構成する個々の中にもそうした者がいるはずです。
さて、そんな中で、集団知は自らの目的を正しく選びとることができるのでしょうか。
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