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2006.02.19

表参道ヒルズ

竣工直前に足場が取り去られて、最後のクリーニング作業をしているのを見かけたのがひと月ほど前だった。そのとき現れた外観を見て、ちょっとがっかりしたのを覚えている。まあ近代建築なんて、どれも似たようなものだから仕方が無い。とってつけたように小奇麗に「保存」された旧同潤会アパートにも、うろんな匂いを感じた。

で、今日は人混みに流されながら中を見物してみたわけだ。

螺旋状に人が流れる導線計画はグッゲンハイムでF.L.ライトがやってみせたものが有名だけど、あの壁に飾られた絵画が、ブランドもののショーウインドウに置き換わったと思うのが最も近いイメージだろうか。

商業が生み出す美は、芸術家がひねり出すそれに比べて、いまでは遜色がないのかもしれない。ただ、多少の実用性という足枷はあるから、創造力を飛翔させるようなわけにはいかず、結局似たり寄ったりの作品群の陳列になってしまうのは、これも近代建築の似たり寄ったり感に似て、仕方がないと言うべきか。
 
 
この新しい人と物の集積を見て改めて思うのだけど、近代建築それ自身には、もう新しい提案力はないのだなと、そういう時代になったのだと感じた。少なくとも、空間、形態、導線などについては、やりつくされ感がある。あまり変化しない人間の身体と行動特性を基準においている以上、これはやむを得ない。例えば「神の家」などという途方もないものには、そもそも成りようがないのだ。
 
むしろ、周囲から明らかに取り残され、20年近く、手を付けることもできなかった同潤会アパートの敷地を、再開発の形でようやく周囲に追いつく程度まで再生した関係者の手腕こそが、ここでは評価されるべきなのだろう。

都市計画は別名「追い出しの論理」とも呼ばれる。
土地バブルが猛威を奮っていた時代には、どんな計画を持ちかけたところで、ここの地権者や入居者を説得することは難しかったはずだ。そのバブルが多少落ち着いた頃合に、こうした計画が折りよく結実したと考えるのが、妥当な見方だろう。

ルネサンスよろしく建築家ひとりの技量に期待する向きにはミもフタもなく聞こえるかもしれないが、そういう時代だと思う。

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