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February 2006

2006.02.26

文化庁 メディア芸術祭

雨でバイクにも乗れないし、ということで、電車で行ける東京都写真美術館へ行ってきた。
2階の正面玄関にいきなり「ああ、女神様っ」3名様の1/2フィギュアがお出迎え。これで引く(笑)。

やけになって「鋼錬」を見る。「かみちゅ」を見る。あじましでおの漫画を立ち読み。そういう展示なんだから仕方が無い(笑)。
というわけで、ぐったり疲れた1日だった。ああ、しまった、「攻殻」を見なかったが、まあ映画館で見たからいいか。

「アート」っていうものは、もう死んでるというか、別のもののなかにビルトインされているのだと思った。それ単独で独立したアートっていうものを、感じにくくなったというか。金を払えばそういうものもまだ脈々とあるのかもしれないが、私には関係なさそうだし。

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商売のタネ(ケース1)

過保護、無教育はセキュリティの盲点をつくる

セキュリティに関してだけでなく、ちょっとしたPCの不具合でも、情報システム部が、いたれりつくせりのケアしている会社の社員の方々の場合PCのセキュリティに対する意識が低かったり、PCが不具合になった時の対処ができないという方が多いことです。
これはいいお客さんカモ。特にこれから大量に発生する退職者は狙い目カモ。
もっとファイルの取り扱いや自宅PCも含め、セキュリティに対する意識や知識を高める教育を強化しないと危ないですね。
そういう言い方もある(笑)。
 
 
話しを脱線させると、映画「マイノリティレポート」で機密の入ったチップを保温ポットに入れて持ち出すシーンがあったなあ。防衛庁のケースはそもそも私物のパソコンを構内に持ち込ませていたように読めるけど、そうだとしたら、比較にならないほど開けっぴろげというほかない。

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ナルニア国物語

よくできた御伽噺でした。かなり「お子様向け」の空気が濃厚だった。特にお勧めするほどではない。
大人も熱狂できる「ロード・オブ・ザ・リング」の後を継ぐのはどう見ても無理だろう。

こうなったら、「ジョニー・デップと愉快な海賊達」に期待するしかなさそう。
予告を見る限りでは、前作に比べて異形の者どもが増えてるみたいだし。

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2006.02.25

ネットの核心を再確認

「ウェブ進化論」著者、梅田望夫さん(45)に聞く(上)

当事者には当事者にしか語れない物語がある。
それを(フィルターを通さずに)広範囲に共有できるようにしたのが、ネットというメディア。

いまさら言うまでもないことなのだが、このところ2.0とかロングテールとか、マーケット屋さんが好みそうな(私も好きだけど(笑))ジャーゴンが飛び交って、ともすると核心を忘れがち。改めて確認したい。

うまい解説よりも当事者の声の方が重要。
 
 
 
そういえば、物理実験の先生は「生データこそが最も重要だ」と強調して言っていた。予定調和的受験勉強に慣れたわしら学生には苦難以外のなにものでもなかったけど、振り返ってみれば、あれが真実だった。
「生のお客様の声」、「ニュースの向こう側の当事者の声」、何でもそうなんだな。

思考のフレームワークが不要ということではないけど、いつも生の声に晒して見直しをしたい。


ふと見ると、上のエントリはコメントもいい。

[追記]
このところまた、いろいろな話が自分の中でシンクロしつつある。
ゴミ貯めスト
のコメント欄

先回りして全体の状況から個々が何をいうべきかを判断する必要はない。そうした判断は全体の状況を考えるのが仕事の人間の責任である。そこからまともな議論が立ち上がるはずである。お金がないです、でもオレはいやだ、じゃあどうしましょう、ということになる。一歩先を行く必要はないと思う。

社会がある思考のフレームワークを個々の構成員に強要する力が、日本では強すぎるのだろうと思う。
だから、単純に「いやです」とか「すざけるな」とか(笑)言えなくなって、「過労死」などというヘンなものが発生する。大学院生なんてあまりスレてないから、この現象が顕著に現れてしまう。

で、最近の自分のシンクロ感は、「予定調和」という言葉を軸にまわっているような気がする。
それを否定乃至破壊しようとするのが、カオス属性が色濃い私の傾向だ。

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2006.02.23

雑記060223


農村を支える「中国の嫁」

「売られた花嫁」ですか。

どうりで、夫が出てこないわけだ。

知人にひとり、中国の人を嫁にもらったのがいる。大手重工メーカーのコンピュータエンジニアだから、農作業のためとかではないのだが。
あの嫁は幸せ者だな。

そういえばこの事件、近所の人たちへのインタビューでは、容疑者を人非人呼ばわりするものを見かけなかったよ。容疑者を悪魔のように憎みきることができたら、どんなに楽だろうに。

悲しいなあ。


Google Videoの後出し検閲

このところにわかに、検閲や政府への情報提供でたたかれ始めた感のあるGoogle。
これは通過儀礼なのか、それとも?


海上自衛隊の「秘」情報が Winnyネットワークに流出。

元自衛官で軍事ジャーナリストの人もいわゆる経費節減で、業務に使うパソコンも個人で購入して使う場合が多く見られた [kamiura.com]と書いてますね。

おそらくこの乗員は、「あさゆき」の通信・暗号担当だと思うが、暗号担当が自前のパソコンを使っているのを見ても、誰も不思議に思わないほど自衛隊では私物が氾濫しているのだ。

私物のPCを使わざるを得ないというのは不味いでしょ。

この話しに引っ掛けて、別の話しをするのだけど、IBMのThinkPadは買ってもLenovoのThinkPadは買うのをためらう。

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2006.02.21

鎖国という思考実験

『国家の品格』のため"鎖国"の準備を始めましょう

このエントリには「民主主義を理想の政体だと多くの人が思っている」といった思い違いがあることはある。
また、巷で流行っているらしい「国家の品格」という本も、ナナメ読みした感じでは、私にはあまりいいことが書いてあるとは思えなかった。

それでも、上のエントリが「鎖国」に言及しているのはたいへん面白いし、完全な鎖国ではなく「経済的な鎖国」と書いているのも、面白いと思う。

もちろん、現実にそんなことはできないだろう。けれども、一種の思考実験として考えてみると、面白いことがわかるかもしれない。

周りの意見がうるさいときは、1人になれる所へ行って静かに考えてみることが、私はよくある。あんまりいろいろなことが起き過ぎて混乱しそうなときに、とりあえず一眠りしてみるのは、よく使う手だ。
・・単なる怠け者なだけかもしれないが。

それと同じように、鎖国という思考実験を通して、考えるべきことは何かを考えてみるのは、たいへん有益なことだと思う。

というわけで、取り急ぎメモだけして、寝る(笑)。

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2006.02.20

ソフト製作の「遊び」

先日、建築と自動車の精度の違いについて、戸建て住宅関係で経験の長い偉い人と話しをする機会があった。その人の話しでは、自動車関係の技術者は、戸建て住宅の施主としては、最大級の難物だという。

建築には「現場納め」という調整方法があり、それを支える様々な知恵が日常的に生かされている。「ちりをとる」などはその初歩だ。

数ミリ程度のちりをとっておくことは、建築の精度においては必須であり、その「ちり」をうまくデザイン的に処理することが施工者の腕でもある。ところが、自動車の技術者はそうした手法が気に食わないらしい。彼らにとって、数ミリというのは不良品のレベルなのだろう。一度そんな人たちに和小屋の曲梁を見せて反応を見たいものだというのは脱線だが(笑)。

ところが、そんな自動車技術者にとっても「遊び」は重要らしい。それも、歯車の遊びといった機械工学的なものではなく、組み立て工程における遊びだというから驚く。

全体と部分の最適化

日本の自動車作りは、パーツを組むときにある種の「遊び」を許容しているらしい。全体をなんとなく組んでおいて、最後に全てのねじを締めなおして、「帳尻を合わせる」。結果、品質とコストとを両立している。
これは初耳だった。なーんだ。自動車でも建築と似たようなことをやっているのではないですか。建築屋にだけそれを許さないのは、どうかと思います(笑)。

さて、上のエントリはこの後、医療の現場での、全体最適の話しへ移っていくのだけど、私は、ソフトウエア製作の遊びについて指摘しておきたい。

ソフトウエアづくりの難問のひとつは、例外処理やエラー処理だと思うのだけど、ある程度大雑把に作っておいて、予想外や許容範囲内のエラーであれば「適当に」処理してしまう、ということは行われているのだろうか。
そうであれば、その考えを押し進めていって、かなりソフト製作プロセスの省力化が図れるのではないかなぁと、素人ながらに考えてみたのでした。

オブジェクト指向に多少その雰囲気はありそうだけど。「適当に」処理できるかどうかが課題かも。

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2006.02.19

表参道ヒルズ

竣工直前に足場が取り去られて、最後のクリーニング作業をしているのを見かけたのがひと月ほど前だった。そのとき現れた外観を見て、ちょっとがっかりしたのを覚えている。まあ近代建築なんて、どれも似たようなものだから仕方が無い。とってつけたように小奇麗に「保存」された旧同潤会アパートにも、うろんな匂いを感じた。

で、今日は人混みに流されながら中を見物してみたわけだ。

螺旋状に人が流れる導線計画はグッゲンハイムでF.L.ライトがやってみせたものが有名だけど、あの壁に飾られた絵画が、ブランドもののショーウインドウに置き換わったと思うのが最も近いイメージだろうか。

商業が生み出す美は、芸術家がひねり出すそれに比べて、いまでは遜色がないのかもしれない。ただ、多少の実用性という足枷はあるから、創造力を飛翔させるようなわけにはいかず、結局似たり寄ったりの作品群の陳列になってしまうのは、これも近代建築の似たり寄ったり感に似て、仕方がないと言うべきか。
 
 
この新しい人と物の集積を見て改めて思うのだけど、近代建築それ自身には、もう新しい提案力はないのだなと、そういう時代になったのだと感じた。少なくとも、空間、形態、導線などについては、やりつくされ感がある。あまり変化しない人間の身体と行動特性を基準においている以上、これはやむを得ない。例えば「神の家」などという途方もないものには、そもそも成りようがないのだ。
 
むしろ、周囲から明らかに取り残され、20年近く、手を付けることもできなかった同潤会アパートの敷地を、再開発の形でようやく周囲に追いつく程度まで再生した関係者の手腕こそが、ここでは評価されるべきなのだろう。

都市計画は別名「追い出しの論理」とも呼ばれる。
土地バブルが猛威を奮っていた時代には、どんな計画を持ちかけたところで、ここの地権者や入居者を説得することは難しかったはずだ。そのバブルが多少落ち着いた頃合に、こうした計画が折りよく結実したと考えるのが、妥当な見方だろう。

ルネサンスよろしく建築家ひとりの技量に期待する向きにはミもフタもなく聞こえるかもしれないが、そういう時代だと思う。

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集団知の責任

「プロフェッショナル」は技能でなく職業倫理で認定される

これからは、大半の職業において、技能が高速道路化して、気のきいた素人にも勝てなくなる。だけど、それでプロフェッショナルが無意味になるかと言うと、ぜんぜんそうではなくて、一定の職業倫理を持ったプロフェッショナルは、ますます必要とされるだろう。
平たく言えば「責任を負う」のがプロフェッショナル、ということになるだろうか。
で、次が重要。
職業倫理を持つということは、ハウルのような軽やかさを失うということで、叩かれるマトになるということでもある。その痛みを引き受ける人に対して、社会は一定の信頼を持つ。その信頼が無ければ社会は維持できないだろう。集団知に欠けているのはおそらくその信頼であり、それだけである。
集団知という概念は、ともすれば、「集団無責任体制」などと言われてきた日本人の得意な意思決定の仕組みと並べて見られがちだ。そのとおりでよいのかどうか。

上のエントリでは、

そういうプロフェッショナルがいてはじめて集団知が機能するのだろう。
と、集団知に責任までは求めないとしているように読める。
 
 
ところで、今朝テレビをZAPしていたら、霞ヶ関改革を唱える若手のお役人達が集団でフジテレビに出演していて、何を言うのかと思ったら
きちんと方針を決めてくれれば私たちは選択肢をだせる能力はあります
などと宣まっておられた。およそ改革者を自負する者の言うことではない。ていうか、大変失礼ながら、みなさんのオーラ、気持ち悪すぎます。

「集団知」というものを、それと同程度のものに貶めたくはない気がするのだけど、どうなのでしょうか。


[追記]
ハウルの軽やかな獣性とソフィーの清らかな鈍重さ

集団知は、固定した視点や特定の原理に縛られません。常に、多面的に物事に対処し、軽やかに新しい立場を創造し続けます。そして、それがスタティックな物事を解体する力となった時の作用には、恐しいものがあります。その破壊的な力を留められる力はありません。
(中略)
集団知と対置される個人としての人間は、ハウルの前のソフィー婆さんのように鈍重で頑固です。しかし、個人としての人間がいることで、集団知に目標が設定されます。そのような存在だけが、集団知から獣性が発現してしまうことを留める力を持ちます。
(中略)
そして、ソフィーはハウルと本当の意味で出会い、ハウルは「守るべきもの」を発見し、自らの獣性を制御することを覚えるのです。

集団知は純粋に力である、と。そして、目的を見つけ出すことで、力は制御され得る、と。そして目的は個人の中に見つけ出せる、と。うーん。学校の教科書にあったこれと少し似ているようですが、もっと現実的で分かりやすいですね。

ひとつ、問いだけ立てておきましょう。
そのような集団知の力を利用したいと思う者は多いと思います。よい意図もあれば悪い意図もあるでしょう。中には巧妙に意図を隠す者も。それどころか、集団知を構成する個々の中にもそうした者がいるはずです。

さて、そんな中で、集団知は自らの目的を正しく選びとることができるのでしょうか。

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ネットはしたたかに。

フランス語は読めないけど、メモ。
Le Monde : 中国政府のインターネット規制を無力にするシステムが開発された!

ハーバード大学、ケンブリッジ大学とトロント大学の共同研究によるもので、財務取引に使うチャンネル(?)を使用するらしい。これを中国政府が規制しようと思えば、全ての財務取引が中国からインターネットで出来なくなってしまうとのこと。
英語の記事も探せばありそうだけど・・

中国の検閲は、他国のわしらには一見無関係に見えるが、問題は大きいと思う。
ネットがなかった時代ならともかく、いまはネットがわしらの目であり耳であり口にさえなりつつある時代だ。中国共産党政府がおおっぴらにやっている検閲は、わしらから目と耳と口を奪うことにつながる行為で、容認できるはずもない。米国政府もNSAなどがやっているそうだが程度問題だろう。

有効な対抗策が必要だったが、上の記事で紹介されている手法は、しばらくは有効だろう。もちろん、中国と財務取引をしたい外国の諸機関・企業は困るだろうから、いずれIPを使った閉じた財務取引ネットワークが構築される可能性は高まるが。

そこで反社会的傾向のある私は(笑)追加対抗策を想像するのだけど、さっさとwinnyを中華大陸に広めてしまえばよいのに。海賊版の弊害は、言論統制や検閲の弊害に比べて優先度では劣るから、DRMなど別の手法で解消することにして。名誉毀損や誹謗中傷は言論統制とコインの裏表だから、バランスの問題ということで。

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2006.02.18

作り手と使い手の変化は表裏一体

リードユーザーイノベーションを越えて

インベーションが技術ドリブンから使い方ドリブンに変わってきているという話のようだけど・・。

オープンソースなどのイノベーションは、モジュールの中身まで完全に可視化されている。Web2.0になると、APIの中身は良く分からなくなる。
「ネットの向こう側」という言葉は、単なる伝送路に過ぎないネットを取り上げたことで実は本質を微妙にはずしている。正しくは「APIの向こう側」というべきかもしれない。渡辺さんの上の言葉は、意図してかどうかわからないが、その点の示唆とも取れる。

上のエントリはさらに、APIさえも不要になり、「表に出るのはサービスか製品のみとなる」という。

従来のマスマーケティングでのリサーチと一体何が異なっているのかは未整理なままである。単純にくるっと一周しただけなのかもしれない。
製品の送り手側では、発想からサービス(製品)提供までの時間が劇的に短くなって、リサーチとサービス提供が同期化し始めているのでは。
一方で、完成品を求める古いユーザから、ベータ版でもある程度使えれば十分とする新しいユーザへと、使い手側の変化も同期しているように思える。

一周は一周だけど、螺旋状に進化しているのではないか。

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男達の大和

泣ける。いい映画。
と、ファンタジーなら言うところなのだけど・・・

そう遠くない過去に実際にあった出来事だから、いろいろと現実的に考えてしまうと、単純に泣かせてもらうわけにもいかない。

この映画のたいへんよいところは、「武士道と士道の違い」という表現の中で、誤った心構えと正しい姿勢の違いを簡潔に言ったことだ。微妙だが決定的なその違いをよく噛みしめておきたい。どう言ったかは映画で観た人も多いだろうからここには書かないが。

よい点はもうひとつあった。特攻のような犬死と思えるやり方に、ひとつの理由付けをしているところだ。これはこれで説得力はある。日本人に対しては。

一方、この映画の悪い点は、太平洋戦争を描いたこの種の作品に押しなべて言えそうなことなのだが、なぜそんな事態に到るまで何の手も打てなかったか、という、その後に生きるわしらにとっての最重要ポイントについては、ほとんど何の言及もないことだ。
 
 
特攻は犬死ではなく、日本という国が誤りを悟るために必要なことなのだと映画では言う。それはそれで、大和が最後の航海に出た時点では説得力があったのだろう。けれども、そうなるよりはるか前に、やるべきことがいくつもあったのではないかと、私は思う。
負けることが必要だったという言説は、後付の理由に過ぎない。大敗北を喫することなく事態を好転させる手は他にもあったはずだ、と考えてみる可能性を閉ざすわけにはいかない。
 
 
碁に「敗着」という言葉がある。ひとつの打ち手は、その前の打ち手によって作られた状況下で最善と思えるように打つものだ。だから、負けがほぼ見えた時点から一手ずつ遡っていけば、どこかで、負けに繋がったと意識できる手が見つかる。

太平洋戦争の負けを招いた敗着は、戦争が実際に始まるよりずっと前にあったのではないか。この種の映画は、ミクロの世界の「友情」「悲壮」「高潔」などの情緒を描くことで、敗着を覆い隠し、思考停止を招く。それはあんまりよいことではないと思う。

なるほど、大本営発表をそのまま掲載する新聞に朝日を選んだのは、製作側の精一杯の表現なのかもしれないが、それだけでは十分な示唆にはならないだろう。
 
 
こうなってしまう理由も、私はなんとなくわかる気がする。
それを言うことは、日本人が宗教の代わりに据えて重宝している「世間」というものを、ある面で否定することになるからだ。
 
そうした背景を抱える映画だから、よくできているとは思うけれど、単純に感動はできないのだった。
 
 
でも泣けるので一応お勧め(笑)。

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2006.02.17

RSS広告の対象

RSS広告,当てが外れることも

RSSフィードを介して来るユーザーと検索エンジンを介して来るユーザーとは,タイプが違うとのことだ。
(中略)
BlackBerryをテーマにしたブログの読者なら,BlackBerryの所有者のはず。つまりBlackBerryの広告を見せても,購入にはあまり結びつかないとのこと。一方,検索エンジンを介して来るユーザーは,BlackBerryなどのケータイを調べようとする人である。こちらの方が, BlackBerryの新規購入者になる可能性が高そうだ。
なるほど。
上のケースならさしずめ、RSS広告には周辺機器広告を、検索広告には本体を、というところか。

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2006.02.16

雑記060216


Firefoxのメモリ大量消費は『仕様』、だが回避方法あり

# しかし実際、FirefoxはいくつかMemoryLeakするみたいですし、
# 許可なく大量のメモリーを使っているのも事実ですし...うーん
FireFoxはときどき、CPUを99%使う状態に突入してしまうので困ってるのだけど・・・memory leakとはまた違うトラブルなのかなあ。


スノーボードクロスって面白い競技だな。つい見入ってしまった。
スキーやスノボは接触すると危険だから、こういう競技はやらないものだと思ってたけど・・・
選手のみなさんは怪我しないように敢闘してほしい。

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2006.02.14

プロフェッショナルの流儀

今日のNHK「プロフェッショナル 仕事の流儀」のゲストは、量子テレポーテーションを実証した古澤明先生。その古澤さんが米国留学で学んだことのひとつが、これ。

失敗を楽しめば
何かが掴める
留学先の研究室の先生は、実験装置を好き勝手にいじりまわして楽しむそうだ。でたらめに見えるどころか正真正銘のでたらめで、当然、実験は失敗だ。ところが、その失敗結果を分析してみごとな成果に繋げるのだという。何度失敗してもへこたれない秘訣が、上の言葉だという。

番組では、失敗を楽しむことのメリットだけでなく、その辛さも取り上げていた。1番だけに意味があって、2番以下は無意味だという厳しい世界だから、その辛さもたいへんなものなのだろう。

ところで私は、この米国の研究室の話しからもうひとつ別のことを読み取った。それは、予定調和に迎合しない科学者の態度だ。

古澤さんも言う。「人間って、一旦きれいにできあがったものを、なかなか壊しづらいじゃないですか」。
けれども、それが停滞を生み結果として失敗につながる。
行き詰った実験を前にして、彼はこう言う。

ふりだしにもどる勇気。
それが一流の証。
番組では、ふりだしからやり直して、みごと実験を成功に導いた様子が描かれる。

最後に、プロフェッショナルとは、との質問の答えがこう。

どんな状況でも楽しめる。
それがプロフェッショナル。

というわけで、今週もいい話だった。

私がNHKをよく見るのは、こういう番組があるからなんだ。
民放と電通にはできないでしょ?

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2006.02.12

PROMISE

摩訶不思議なお話し。HEROのようなわかりやすさは無い。
HEROやLOVERSと同じ様式美で作られているので、それが嫌いな人には向かない。

結末は少し予想外というか、すんなりした決着ではない。脚本が逃げを打ったと言われても否定はできないが、しかしこうした結末はわしら東洋人には案外馴染みのものだ。

「無極」というのが元のタイトルなのだろうか。それを「Promise」としたのはやや工夫がない気がする。普通に考えれば「Fate」のようでもあるが・・・この辺は興行的な配慮もあるのだろうか。
 
 
一応悪役という位置づけの「北の公爵」を演じるニコラス・ツェーの存在感が印象に残った。
この様式美の中で、真田広之演じる「光明」はやや人間臭く浮いてしまいがちだが、お話しが進むにつれて、案外味のある役だとわかる。役柄的にはあれでいいのだろう。

お勧めはしないが、損したと思うほどでもない。人によって想うところが異なりそうな、いろいろな解釈を許す映画、という感じがした。

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2006.02.11

ジャーヘッド

戦争というのは、陸上兵力で圧倒しない限り勝利で終わることはない、という話しを聞いたことがある。戦争の目的が占領であるなら、それはある意味で正しいだろう。

この「ジャーヘッド」は、そういう戦争の基本は変わらないまま、一方で兵器も情報も地上の兵士達のはるか頭上で展開されるようになってしまった過渡期の小さな戦争の断面を、地上を歩く視点で描いてみた、といった趣だ。以下ネタバレあり。

この映画中で、死体が出てくるのは1回だけ。たぶん逃げ遅れた民間人だろうか、家財道具とともに焼け焦げたものだけだった。
衛星軌道から相手の動きがわかるような軍勢が、大部隊単位で不意打ちを食って焼け焦げになるということは、もうあり得ないのだろう。

その点でこの映画は、これ以前の戦争を描いたものと大きく違う。「プライベートライアン」の冒頭30分で描かれたような緊張や阿鼻叫喚は、「ジャーヘッド」には出て来ようがない。

代わりに出てくるものは、兵士の日常だ。プレスをかけて相手を後退させるのが戦術の基本だから、突撃もへちまもない。爆弾を落として相手を下がらせたエリアへ、奪い返されないように乗り込んでいって気勢をあげておく、という日常だ。
そんな中で兵士の戦う本能は(訓練の成果で)古いままだから、結果、観ている側からは喜劇に映る。

「俺にも1人くらい殺させてくれー! こっそりでいいから。」というくだりは、「兵士が人間から殺人マシーンに変化しうんぬん」などというものでは全くない。

そう。この映画は喜劇を意図しているのかもしれない。とりわけ、時代遅れと言われがちな海兵隊の喜劇性を描こうとしたのかも。


とはいえ、わしらはそれほどこの映画を笑って観ていていいものでもない。
お隣の大きな国は、いまだにたいへんな数の兵隊を抱えて増強を続けているらしいし、もうひとつお隣の小さな国は、ミサイルの照準をセットするとかしないとかを国交正常化交渉の席でちらつかせたりするらしいから。

米軍は、そんなわしらが効果的に使えるカードには違いない。海兵隊のジャーヘッド君達に一応感謝しつつ、十分活用させてもらいたいものだ。
 
 
なんだか気の抜けたコーラみたいな感想だな。

[追記]
そうそう、スクリーンの入り口でなぜか「ミュンヘン」についてのアンケートをとっていた。「ミュンヘン」あんまり観られてないのだろうか。
ちなみに私も観ていない。いまさらミュンヘンオリンピックでもないと思うんだ。「ホテル・ルワンダ」と重なってるのも少し不運だったかも。

[追記2]
AEON FLUX の予告編を映画館のスクリーンではじめて見た。
案外普通だった。オフィシャルサイトのビデオクリップを見たときは「凄い!」と思ったのだが・・。画面サイズ、編集、どちらに問題があるのだろう。
「KING KONG」の予告編がさっぱりで興行的にもぱっとしなかったが、改めて、予告編づくりって難しいよね。

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2006.02.10

雑記060210


ThinkSecret:本当のビデオiPodは今春登場する

うひー。かっちょよすぎ。ほんとかなあ。
今年はすごい勢いでこのカテゴリが進化するかも。

こちら経由。


新発5年債利回り 1.025%

今年の1月16日に発売されたばかりの「個人向け国債」は0.8%の利回りで、あっという間に売り切れたんですが、あわてて買った人たちは、どう思っているのでしょうか?
うひー。始まったのかな。
コツコツと真面目に働けば確かな将来が約束された古き良き時代は、もう過ぎ去ってしまったのです。テレビ局や新聞社に勤めている中高年たちは、多くが有名大学を卒業し、豊かな暮らしをしている人が多いのですから、そんな人たちが作る番組を見て、「あぁ、やっぱりコツコツとマジメに働いていれば、きっと将来は大丈夫だ」な~んて信じているとしたら、それは余りにもお人好しが過ぎると思います。
おいらおひとよしだけど、それでも将来は大丈夫には思えない。


米国会議員Wikipedia乱用

お茶目。


ゲイシャ映画「さゆり」に関連して。

そんなわけで、上映禁止らしい。すなわち、ゲイシャ=売春婦に中国系女優が扮し、日本人に春をひさぐ演技をするのは国辱ものであり許しがたいのだそうだ。
(中略)
世界に躍進する中国系俳優の可能性を狭めるだけではなく、演技という行為に対する無理解でもある、と思う。
と思う。
あれは職能人のお話なんだから。って以前も書いたか。

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2006.02.09

IPによる通信と放送の融合

「通信と放送融合を探る<中> 世界に先駆け日本型を」 日経本紙 経済教室

スタンフォード日本センター研究所長の中村伊知哉さんの寄稿
<上>を読んでないのだが、この<中>単独でも面白い。

「融合」は日本の問題であり制度の問題である
の部分はそのとおりだ。
日本の放送局がハード(通信路)とソフト(コンテンツ制作)の両機能を持つことが原則だ。
という部分は、正しく「原則だった」というべきだろう。今後もそうすべきかどうかについては議論があるはずだ。なぜなら、ハードとソフトを分離してそれぞれ競争環境に置いている米国では、通信路の供給者としていわゆるIT企業が台頭し、新陳代謝を促しているのに対して、日本ではこの点で、Yahoo!が健闘してはいるが、やや停滞が見られるからだ。

中村さんはこのあたりを、電気通信役務利用放送法により通信を使って放送を行うことができるようになったことを取り上げて、世界的にも先駆的としているが、しかし同時に書いているように、日本の映像コンテンツの大半はテレビを通じて流されており、そのテレビが利用している地上波、BSには同法は適用されない。つまり、外見上先駆的な法律ができたように見えて、その内実はあまり変わっておらず、相変わらず映像コンテンツは規制業界の管理下に事実上置かれているのだ。ワンセグ放送もこの延長でしかない。

これを、新しいコンテンツ提供者の育成によって乗り越えることは可能かもしれないが、時間も資本もかかる。むしろ現有のコンテンツを公共財に近い扱いにして開放することが、手っ取り早い。

中村さんが、NHKが公共的な受信料と税金とを使って作り上げてきた膨大なコンテンツに言及して、こう言っている点は興味深い。

むしろ、NHKにネット配信を義務付け、資産の有効活用と新市場の開拓を担わせるという考えも成り立つ。
勝手な想像なのだが、NHKにとってもそれは本望なのではないか。
NHKを見ているような人間は、何につけても一家言あって発言が好きな人ばかりのはず(笑)だから、多地点双方向コミュニケーションの仕組みを仕込んでおけば、労せずして放送を核にした良質なコミュニティ(ユーザによるコンテンツ)を立ち上げられそうだ。それを使って放送と通信の融合の先頭を走れるのではないか。それは「みなさまのNHK」を実現する容易確実な方法だと思うのだけど。
 
 
さて、中村さんの稿の最後は、IPによる伝送路の区分の撤廃について触れている。
IP化による通信網の設計思想の変化は、通信と放送の伝送路の区分を撤廃することを求める。コンテンツに関する規律も、通信と放送という単純な区分より、消費者保護、プライバシー保護などきめ細かい多元的な社会要請に応える仕組みが必要だ。
私は、IPを使って、秘密性を求められる通信と、発信の責任を問われる放送を両立させることが可能だと思う。実装方法には2つの方向性がある。

ひとつは、原則、匿名性を保持できる伝送方式を基本として、発信者責任が求められる場合には、その上のレイヤで発信者情報を流通させるもの。もうひとつは逆に、原則として発信者情報をコンテンツと不可分とする伝送方式を基本として、匿名が望ましい場合には、発信者情報を隠蔽するものだ。

市井の人間である私は、前者が好ましいと思うのだが、その方向へ世の中が進んでいるのかどうか、多少心もとなくはある。IPv6の導入・普及の際に、原理主義者の策謀により(笑)後者になったりすることが、万一にも起こらないように祈ることしきりの今日この頃です。

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2006.02.08

情報の兌換性強化

書評「ウェブ進化論―本当の大変化はこれから始まる」・上

 ところが、ビジネスにおいて最大の課題である「売り手と買い手のマッチング」が、どのような規模でもネットの中だけで効率的に行われるとなると、あらゆる商行為がすべてネットで完結するようなビジネスが爆発的に増える。それがAdsenseのような広告ビジネスであったり、さまざまなWeb2.0的サービスであったりするわけだ。
実物経済よりも金融経済のほうが数倍大きくなったのと、感触としては似ているかも。
情報がますます兌換性を強めるということでもあるかも。
 
 
ここでちょっとつまらない予想をしてみよう。
「デキゴト先物市場」というものの誕生だ。

あるデキゴトが将来おきるかどうか、また、どのように起きるかを予想する。それについて、美人投票が行われる。投票結果をよりよく当てた者へ予想をはずした者から富の移動が起きる。そのような取引を行う市場だ。

今の金融市場でも、すでにこれとさして変わらないらしいが、一応、「モノ」の取引から派生したという、言い訳めいた倫理性をまだ保持している。

しかし、情報そのものの価値を可視化して、そこから派生する先物市場というものを考えてみると、上のようなものになるのではないか。

具体的には、例えばだが、オリコンのランキング予想を取り扱う市場というものがあるかもしれない。

と、ここまで考えて、それって、ファミレスで下卑た親父たちが屯してやっていた野球賭博(最近見かけなくなったな)とどこが違うの? と思いついて、思わず噴き出してしまったヨ。
身体性を伴わない「ネットのあちら側」というものには、そういう側面は付いて回るですね(笑)。
 
 
古風な倫理観に縛られている生身の私は、それに(まだ多少の)ストレスを感じるけど、
しかし、世の中そうなってもおかしくはないと思う今日この頃。

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愚痴の昇華

出張へやってきた夕暮れ、くたびれた頭で同道の中間管理職と夕餉を共にする。そうした場にまことにありがちだが、仕事場についての愚痴がとめどなく流れ、そに付き合う。付き合いでさんざん毒づいて、さて宿への帰り道、ふと、転機が訪れる。その転機は、次のエントリが触媒になって立ち現れた。

私の好きなふたつのこと

合気道について、よく「相手の力を利用して投げるんでしょ?」と訊かれる。
ある種の力を利用するのはまちがいないけれど、「相手の力を私が利用して」という文型はまちがっている。
このとき力を利用しているのは、私でもなく相手でもない。
私と相手が触れ合うことによってその場に成立した「私と相手をともに含む複素的身体」である。

(中略)

敵とか味方とか、そういう要素的なことをがたがた言うのは止めて、一期一会で構成されたその一回限りの複素的身体がどれほどのパフォーマンスを成就しうるのか、それを探求してみてはいかがかというのが合気道的な考え方である。

仮に、愚痴に登場する職場や人物が言葉通りのものであったとしても、それはこの記事が言うところの複素的身体の一要素に過ぎない。

一期一会で構成されたその一回限りの複素的身体がどれほどのパフォーマンスを成就しうるのか、それを探求してみてはいかがか
いいことを仰る。
そのとおりである。

お互い不完全な人間であってみれば、相手にのみ理想像を求めるわけにはいかない。何か結果を出せる方法を考えて実行するほうが、ずっとましというものだ。 

もちろん、より楽しく面白い複素的要素環境を求めて移住していくことを否定はしないが、しばし留まるのであれば、その状況を合気道の考え方で処してみてはどうかと、ふと想ったのである。

時々でどちらを選ぶかは融通無碍というものでありましょう。
 
 
[追記]
てなことを書いていたら、もっと直截なエントリがあがっていた。
原理主義と機能主義

おんなじネタで2つもエントリ書くなんてずるいや(笑)。

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2006.02.07

RSS広告の矛盾?

RSSマーケティング・ガイド 動き始めたWeb2.0

「RSS広告はページ単位から記事単位へと土地を細切れにし、それぞれの価値を上げようとするものである」。だから「どこまでコンテンツを小さく区切って地上げすることができるか」というチャレンジだと書いている。
テーマを絞って書かれる記事の方が広告にはなりやすい。この点については、いまさら感はある。
この書評の、というかこの本のキモは次の部分か。
たとえばRSS広告社の事例では、地震が起きると、ブログで地震についての記事が大量に書かれて、地震保険の広告の配信数が多くなった。トレンドというのは多様でこれがくる!とヤマの予想が難しいものだが、あらかじめ話題になりそうなRSS広告をいくつも仕込んでおくことによって、「ユーザの興味が最も喚起されたタイミングで的確にリーチできる」。検索連動型と違ってユーザが知らないキーワードにも対応できるので、新製品や突発的な事件、事故への広告効果が高いようだ。
これは面白い現象。RSSというか Mark up language を考えた人がこうした現象のディテールまで予測していたかどうかはわからないが、技術は正しく解釈され利用されているような事例だと思います。

とはいえ、XMLはかなりreadableなので、広告をカットすることもまた簡単にできてしまうような気もするのですが・・・XMLと別レイヤで広告を動かすのなら、それはそれでXMLの意義を損なっているような気もするし。そんなものをWeb2.0とは呼べないような。

というわけで、この件は少し勉強しないといけないかな。

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韓国梨

韓国産の梨というものをスーパーで見かけて買ってみた。
日本産のどんな梨よりも大きい。それでいて安い。

味はもちろん梨の味なのだが、ほのかに乳製品のような甘みがある。日本の梨のさっぱりした甘みとは微妙に違うが、これはこれで悪くない。

「チャングムの誓い」を見ていると、梨で味を調えるような台詞が出てくるが、あれはこういう梨を使っているのだなあ。

世界中のこうした食べ物が安く手に入るなんて、いい世の中だな。
とただ単純に感謝。

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2006.02.06

雑記060206


「名大の授業」--インターネット上への教材の無償公開--

名古屋大学(総長 平野眞一)は、授業の一部を選び、そこで実際に使われている教材を電子化しインターネット上で無償公開する事業を始めます。
公開授業のリストはこちら

こちら経由で知る

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オリバー・ツイスト

ヴェニスの商人と同様、有名な原作を持つ、よくできた映画化。

ディケンズはこの作品で何を言いたかったのだろう。一般的には、社会システムの失敗がもたらす格差の悲惨とそれへの抵抗を描いていると言われているらしい。

格差拡大・固定化への入り口に立っているらしいわしらは、この映画をどう観たらいいのだろう。また、これを作った映画屋さんや広告屋さんは、何を思ってこの作品を映画化したのだろうか。


私はこの映画から、悪に様々な種類と程度があることと、それに対して大雑把な対処をすることの罪を観た。

フェイギンは悪ではあったけど、命まで取られるような悪だったろうか。判事は忙しくて目の前の悪の種類を注意深く見つめることはできないようだったが、それは罪ではないのだろうか。フェイギンの犯した罪は裁かれ、判事の罪を裁く者はいない。
この話しが書かれた19世紀ロンドンは、そういう社会だったのだろう。いまはどうなのだろうか。少しはましになっているのか。

そうしたことをくっきりと感じさせてくれたのには、やはりフェイギンを演じたベン・キングスレイの力が大きい。最後のシーンは少し泣けました。見て損はない一本。

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2006.02.05

分散と協調

エンタプライズサーチ事始め

単一のアプリケーションに業務システムが全て載ることは通常考えられず、DWHにしても集めれば集めるほど急激に巨大化するために、取り扱いはすぐに難しくなる。また、全てカバーするような大きなアプローチは日常のちょっとしたことにはそもそも相性が悪いことが往々にしてある。そして、日常業務で大事なのは、そのちょっとしたことの積み重ねだったりする。

よって、分散したデータベース(もしくは多様なアプリケーション)を対象とし、緩やかに全体を繋げて軽快に情報を取り扱いというニーズが昔と変わらず潜在的にあったところに、ここ数年でのウェブサーチの急速な進化により、ユーザー側にサーチ技術への信頼と期待が培われることとなった。

話しはこの後、エンタープライズ・サーチの方へ移っていくわけだが、上の引用部分には分散と協調のキモの部分が書かれている。

ひと時代昔には「分散と統合」などのキャッチコピーが流されて誤解を振りまいたが、正しくは「分散と協調」と言うべきだろうと私は思う。Web2.0と呼ばれているものは、そのイメージを具体化する手法群のことかとも思える。

それが、現実に落とし込めるくらいに技術がようやく出来てきたということらしい。

これに続く記事のシリーズはちょっと面白いのでメモ。
ビーイング・メタ・デジタル(1):データからメタデータへ
ビーイング・メタ・デジタル(2):メディアからメタメディアへ
ビーイング・メタ・デジタル(3):サプライからデマンドへ

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言葉と思考

まず日本語を
に対して書かれたと思われる
日本人が日本語など学ぶ必要はない


最初の記事は、英語にこれほど時間を割く前に、日本語を訓練させよと(そうすることで思考の土台を作れと)いう文脈で書いている。対して、後の記事は、深い情念は訓練抜きでも言葉を迸らせるということを言っていると思う。批判というよりは、論点をずらして衝突をうまく避けてはいるように読めた。

言葉が思考を引き出すこともあるし、思考に基づいて言葉を紡ぐこともあるだろう。どちらか一方だけという人などいないのではないか。場面に応じて、得て不得手に応じて使い分けているはずだ。

そういう自分はどうかというと、ここしばらく、言葉がぞんざいになると同時に思考が雑になっていたなと反省。もう少し刺激を多く取り入れて頭の中を練らないと。

というわけで、今日という今日こそは何か映画を観に行こう。

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雑記060205

あっという間に1週間が経つ、という感じ。blogを読む時間も書く時間もない。そもそも映画を見に行くことができない。あと少なくとも1週間はこの状態が続きそう。
やるべきなのにペンディングになっていたり忘れていることを、たまの日曜に思い出したりして焦る。やはりあまり単純な作業は、他人にやってもらう方がよいかも。

という状態なので、古くなったニュースなど読んで驚いたりする。


ウィルコム、2月からPHSデータ通信を高速化

おお! 端末買い替え時か?!


そのほかアルファブロガーな皆様の重い記事とかは読めないが、こちらこちらを読んで幸せな気分にひたる。


はやく暖かくならないかなあ。

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2006.02.01

NHKの幻想

公共放送とは何か

通信にしても電力にしても、公益事業的なサービスを民間企業が提供している分野はいくらでもある。「電力は公共のインフラだから特殊法人にして一律の電気料金にすべきだ」といった議論は聞いたことがない。
公共放送の定義の話しから、受信料制度や有償放送の話しに移っていくが、それはそれで興味深い。

受信料制度についてのNHKのこだわりは

デジタル化によって従量制課金ができるようになった現在でもNHKが有料放送化を拒否するのは、契約者が激減することを恐れているためだ。
としながら、それは杞憂であるとして説得力のある事例を挙げている。
 
 
私は、いまの受信料程度なら有料になっても払うつもりだが、世間にはそうでもない人が多いのだろうか。そういう人はすでに受信料支払いを拒否しているだろうから、有償放送に移行しても収益はあまり変わらないような気もする。

むしろ、NHKが恐れているのは、有償化によって「NHKを見ない」人の大きな塊が顕在化することなのではないか。「国民全員が見ている」という幻想(またはプライド)を延命させたいのかもしれない。

そんな時代遅れのこだわりはさっさと捨てて、有償放送に値する内容の番組づくりに打ち込んでほしいと私は思う。

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