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2006.01.28

視野狭窄

「みんな」の呪縛

京大アメフト部員が起こした事件についての解釈が簡単に書かれている。彼らの視野狭窄が原因だということらしい。

大衆社会にはさまざまな特徴があるが、その一つは「視野狭窄」である。
どうしてそうなるのかというと、大衆の行動基準は「模倣」だからである。
オルテガが看破したように、「大衆とは、自分が『みんなと同じ』だと感ずることに、いっこうに苦痛を覚えず、他人と自分が同一であると感じてかえっていい気持ちになる、そのような人々全部である。」(『大衆の反逆』)
彼らの行動準則は、「他人と同じであるか、どうか」だけである。
何らかの上級審級に照らして正邪理非を弁ずるということをしない。
事件を起こした学生は「パーティとはそういうものだと思っていた」そうだから、なるほど「みんなそうだから別に悪くないと思った」ということか。

この「みんな」概念にはこどものころからずっと悩まされてきた。結果として他人と違うことにつながるようなことをしようとするとすぐにお咎めが来るのだから困ったことだ。しかも、そうしたことを逐一咎めだてする人は、その鼻糞(失礼)のようなルールが世界を絶対的に支配しているかのように思い込んでいることが多いので始末に困る。その理由がわからなかったのだが、ここに答えが書いてあった。

無知な人間の方がそうでない人間よりも自分の判断の合理性や確実性を強く感じることができる。
それが大衆社会にかけられた「呪い」である。
私は人様を無知などと決め付けるつもりはないのだが、なるほど呪われていたわけか。判断は停止しているのだから迷いは無い。強いわけだ。

私はこれを、いま引退時期に差し掛かっている人たちを見ていて感じることが多い。以前しばらくいたことのある会社の取締役殿が、いわれなく他人を非難する際に「だってみんな言ってるよ」と宣ったことがあった。人生も終盤に差し掛かった年齢でなお、そんなことしか言えない彼がさすがに哀れに思えたので、「みんなとは具体的に誰と誰と誰ですか」と聞き返すことはしなかったが、代わりに次の文を彼に送ることにしよう。

ある程度世間を見てきて、世の中にはいろいろな人間がおり、いろいろな価値観や美意識や民族誌的偏見やイデオロギーや臆断があるということを学んできた人間はめったなことでは「みんな」というような集合名詞は使えないということがわかってくる。
逆に、世間が狭い人間は軽々に「みんな」ということばを使う。

さて、翻って自分はどうだろうか。「みんな」という言葉は確かに使わないが、自分に限ってそんなことはないという思い込みもまた、視野狭窄には違いない。

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