« HDDRから携帯プレーヤーへ | Main | 憲法改正の議論 »

2005.11.26

責任

「責任を取る」という生き方

「責任を取る」というのは、端的に言えば、「失敗から学ぶ」ということである。
「責任を取らせる」というのは、「失敗から学ばない」ということである。
失敗から学ぶ人間はしだいにトラブルに巻き込まれる可能性を減じてゆくことができる。
失敗から学ばない人間がトラブルに巻き込まれる可能性はたいていの場合増大してゆく。
そういうタイプの人間は、80%自分が悪い場合でも、残り20%の有責者を探して責め立てるようなソリューションにしがみつくようになる。
だが、他責的な人間が社会的な承認や敬意や愛情を持続的に確保することはむずかしい。
そして、周囲からの支援を持たない人間は、リスク社会においては、ほとんど継続的にトラブルに巻き込まれ、やがて背負い切れないほどの責任を取らされることになるのである。
そして弁護士業が興隆を極めることになるのであります(笑)。

上のエントリは含蓄のある話だと思う。ここには、2つの要素がある。
ひとつは、責任をとることが痛みを伴い、失敗から学ぶように自分を仕向けるという点。もうひとつは、責任をとることが、周囲から社会的な承認を得るのにつながるという点だ。

第一の点については、情緒的な考えをあえて排して言えば、責任をとらずに実質的な損失を避けつつ、内心では失敗を認めそれに学ぶ、ということが可能だ。私はそうした二重性を一概に非とはしない。

第二の点については、相手を見てモノを言え、ではないか。私はいま、ブリジストンが米国で遭遇した困難を思い返している。
エクスプローラという車の事故は、タイヤだけが原因だったわけでもあるまいが、世の中の結論はタイヤにすべての責任があるとなった。その結論に到った切っ掛けは、ブリジストン側が、まず謝るという行為を通じて、責任をとる用意があると意思表示したことだった。ブリジストは、自社にも責任の一端はあるがそれだけでもないだろうとの思いだったに違いないと私は思う。

ブリジストンは、損失を被ったことで、米国社会から承認を得ただろうか。


私は、昔たしなんでいた碁というゲームから学んだことがいくつかあるけど、その中に「実利と厚みのバランス」という概念がある。
上の二点をあわせて考えると、責任というものは無制限に尊重されるものではないように私は思う。相手を見てものを言いつつ実利と厚みのバランスをとるようにするのが、身過ぎ世過ぎの人の一生では、妥当な生き方に思えてくる。

そして・・・悪貨は良貨を徐々に駆逐していくというわけだ。これは避けられないのだろうか。

ここでノブレスなんとかというのは、無しとしたい。
それは個体より集団を重視するという別の視点での切り口が必要になるので。

あ。そうか。
「責任」という言葉はそもそも、集団に対する個人の関わり方に他ならないのだった。
すると上で私がつらつら書いたことは全て的はずれ、ということになる。

「責任と権限」という文脈における、明示的、人工的なニュアンスで使われる「責任」という言葉と、隠れていたリスクが顕在化した、無自覚的に起きる状況に対する「責任」という言葉は、同じものを指しているのかどうか・・。

・・・再考します。

|

« HDDRから携帯プレーヤーへ | Main | 憲法改正の議論 »

日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

Comments

Post a comment



(Not displayed with comment.)


Comments are moderated, and will not appear on this weblog until the author has approved them.



TrackBack

TrackBack URL for this entry:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/7081/7324607

Listed below are links to weblogs that reference 責任:

« HDDRから携帯プレーヤーへ | Main | 憲法改正の議論 »