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2005.09.17

弱者と自由

どうも衆院選の結果を受けて、多少バランスを取ろうというエントリが増えているような気がする。

勝者の非情・弱者の瀰漫

私は一応弱者の部類に入ると思う。経済的にも政治的にもそうだ。ほかの面でもそうかもしれない。精神的に、とか。

だから、上のエントリのようにめりはりの効いた批判を浴びせられると、思わず手で顔を覆いたくなる。のだが、弱者というものの意味がはっきりしないので、先の選挙において私はどのように弱者らしかったかを書いてみたい。

本筋に先立って、上のエントリについて揚げ足取り(笑)。
弱者は醜いとか、弱者は自分の同類の足を引っ張りがちなどの説には、簡単には頷けない。なぜなら、弱者「だけ」がそうであるかのようなこの説は、弱者でないものについては触れていないからだ。たとえば、既得権益を守るために理節を捻じ曲げる強者は醜くはないか。より強い者の足を引っ張り、より弱い者の頭を抑え付け、少しでも強い立場に立とうと奔走する有様はどうなのか。強者が弱者と比べて、こうした点で特段に優れているとは、必ずしも言えないだろう。

本筋に戻って私の話だった。

投票で弱者である私が求めたものは「公正さ」もしくは「公正であろうとすることの表明」だ。

弱者の平均と大差ない(と思われる)人達が、既得権を背景に強者として振舞うことに、私は強い不満、違和感、不公平感、そして何よりも醜さを感じる。だから、その構造を破壊する動きには基本的に賛成だ。私にはそんな心情があるようだ。
なにしろカオティック・ニュートラルだからな(笑)。

たまさか、私が賛成する動きが、強者の権益を破壊するだけでなく、結果として弱者の経済的な利益も損なうことがあるのかもしれない。私にはよくわからない。
たとえそうなったとしても、おそらく私は結果を受け入れるのだろうと思う。自分が機会を活かして強者に転向しない・できないからといって、機会の平等が世の中から失われること自体を認めるわけではないからだ。そんなことを認めたら、弱者の唯一の拠り所である「希望」が失われてしまう。それは最悪だ。

そういうわけで、私は、比較的公正さ実現してくれそうな、つまり希望が一番感じられるところに票を入れた。もちろん、本当にその政党が、こちらの希望どおり動いてくれるかどうかなどわからない。未来を予測できるかのような不埒な言説は控えたい(笑)。


さて、以上が、弱者たる私が投票で考えたことの大筋だ。
私は、「公正さ」を価値基準の上位に置くことが、「自由」を最大にする方法だと思っている。自由主義とは、「自由に振舞ってよい」という意味だけでなく「自由に振舞える環境が保たれる」ことを望む立場だと思う。

弱者たる私は、自分の自由を拡大するために、世の中がなるべく公正であることを望んでいる。

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