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2005.07.10

幸福についての主観と客観

シンクロニシティというわけではないけど、このところ、またぞろ「幸福」についての話しが表面化することが多いような気がする。


「「働かぬ若者」に新視点」日経本紙
で紹介された「カーニヴァル化する社会」から引いた、

内的には幸福だが使い捨てられる大衆と夢から覚めているがゆえに不幸な少数のエリートへと分裂する方向に向かう
という説。


昨日見た映画「大いなる休暇」の描く幸福観。

貧しいけれど充実し、やるべきことがあることに誇りを持てる、その幸福。
これは、「カーニヴァル化する社会」の立場からすると、内的に幸福だが使い捨てられる人々にあたるのだろうか。


以前引いたような、想像力と幸福との関係。それだけの想像力を持てる人は、知的エリートのようにも思えるけど、それは「カーニヴァル化する社会」の覚めていて不幸なエリートと、どう違うのか。


私としては、以前どこかで耳にした問答を、また引いておきたい。

問:そんな風に人に使われるだけの人生でいいのか?
答:人の役に立つことが、そんなに悪いことだとは思えない。
この答えは確かアングロサクソン系の経営者か経済学者が、言ったことだったと思うのだけど、誰だったか思い出せない。


幸福を主観と客観のどちらで計るか、またどんな基準で計るか、それを確認しないままの主張が多いので、あちこちですれ違いが起きるのだと思う。幸せを計る基準なんて誰にも定義できそうにないから、この話しはすれ違い続けざるを得ない。

で、私の中でこの種の話しの最後にいつも来るのが、これ

死が人の平等を保証する。
これは一種の思考停止かもしれないのだが、余計なことを考えずに目の前の仕事に集中できるという意味で、当面のアンカーではある。

やっぱり自分は「覚めたエリート」とは違う存在だな、と自覚する。
というか、そういうエリートはひょっとして「覚め方」が浅いのではないか(笑)。

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