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2005.04.24

オレ様化する子どもたち

「オレ様化する子どもたち」 諏訪哲二

以前こちらで紹介された(たぶん)のを、図書館で予約したところ順番待ちで、先週やっと借りて読んだ。書いてあることの数は少ないのだが重要。要点をメモしつつ多少膨らませてみる。(括弧内は自分で膨らませた部分)


子どもの教育について提起されている問題を考えるとき、「子どもは変わっていないが子どもを取り巻く環境が変わった」とするのは事実誤認であり、「子ども自身が変わってきている」ことを自覚すべきだ。

(※ここで、「子ども」とは中学から高校くらいの子どものこと。それ以前の段階で、子どもが消費社会的環境に多大な影響を受けていることは了解済みと受け止めておく)


さて、その子どもの変化とは何かと言えば、自己を絶対(オレ様)化してしまうようになったことだ。

共同体的価値を知ることなく、いきなり消費社会の主体として「自立」してしまう結果、自己を相対化することができない。自己は絶対であり、他者から受け取る無償の「贈与」は成り立たず、常に「等価交換」のかたちに持ち込もうする。

「贈与」を受けないから、虚心坦懐に学ぶこともできない。偏狭な絶対性しかないから、人間の全体性を知ることもない。障害に出会えば、単純な等価交換しか知らないから簡単に煮詰まってしまう。
(※そして他者への贈与もしないから、今後おそらく新たな問題を生み続けるだろう。)


著者の見方は、保守(共同体的)とリベラル(市民社会的)どちらかに偏っているわけではない。

この二つは世界の見方の二つの流れなのであって、どちらが「正しい」といったものではない。「共同体的」に眺めるとこうなり、「市民社会的」に眺めるとこうなると腑分けするなかで、どちらがより「現実的」であるかを問いたいと思っているが、予感としてはどちらか一方が「正しい」という二項対立的なものではない。

そのような著者が考える現実的な処方は、普通教育では基礎的な知識や社会規範を身につけ、その後の高等教育で「個性化」を目指す、というものだ。
俗に「個性」を大事にしないと「個性」が潰されてしまうと危惧する人が日本には多いが、社会化のプロセスで潰されてしまうような「個性」は潰されるべきである。
(中略)
「社会化」されているあいだになくなってしまうようなものは、「個性」ではない。
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それぞれの「個」の「社会化」は、まさに社会(共同性)から強制されねばならないが、その「個」がひとつの強烈な「個性」として自己実現していくかどうかは、教育の内部(レベル)の問題ではなく、まったくその「個」の自己決定の問題なのである。
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公教育(普通教育)は近代的な市民(国民)形成にかかわるものとして自己限定すべきなのである。

結論はごくまともで常識的だと思うのだが、それが声を大にして論じられなければならないようになっているということが、そもそもの問題なのだろう。

教育現場の外では、消費社会的環境の浸透があり、内では教える側自身(親も教師も)のオレ様化の可能性があり、「オレ様」化していない人間にとっては嬉しくない状況ではある。
 
 
 
さて、それで、ここしばらくは教育をビジネスにと考えている私としては、この状況をどう読むべき?
というところで、一旦終わる。

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