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2005.04.02

あぶない「大衆社会」の始まり

サンヘドリンの法理
階層化=大衆社会の到来」に続くエントリ。いろいろな話が引用されていて難しいが、筋を追ってみる。読み誤っていたらご容赦。

内田さんは、前半で米国の女性嫌悪を例にとって、それが限られた時代地域の特殊な要因によるのか、それともより普遍的なものなのか、その起源を考えることへの興味を語った後、本題に移り、現代日本に到来しつつある階層化社会の原因を、現代日本における特殊要因に求めるのか、それともより普遍的なものとするのか、を考えている。

この階層化社会、あるいはニートや希望格差の原因は「不況」、つまり金(収入)不足という特殊要因だとする意見が多い、と内田さんは述べている。しかしそれは本当の原因なのか。むしろ、カネさえあれば階層化社会の進行を押しとどめることができると、誰もがこぞって無批判に同じ考えに染まっている状況こそが、社会の階層化を進行させる土壌になっているのではないか。言い換えれば、カネ不足という特殊要因が問題なのではなく、隣人と同じ考えを無批判に受け入れ、単一尺度で多くの人が行動する結果、いたるところで軋轢が生じ不満が高まるという普遍的な現象の広まりこそが、社会の階層化を進行させているのではないか。内田さんの問題意識はそこにある。

さらに、この前のエントリ「階層化=大衆社会の到来」で、階層化の進行こそが本当の大衆化の始まりであり、それは忌むべきもののように書かれている。どのように忌むべきものであるかは、内田さんの言葉をそのまま借りたい。

オルテガは「大衆」をこう定義する。
「大衆とは、自分が『みんなと同じ』だと感ずることに、いっこうに苦痛を覚えず、他人と自分が同一であると感じてかえっていい気持ちになる、そのような人々全部である。」(中略)
ニーチェにおいて「貴族」の特権であった「勝ち誇った自己肯定」が社会全体に蔓延した状態、それが、オルテガの「大衆社会」なのである。(現に、『大衆の反逆』の刊行の一年後に、ニーチェの「貴族主義」を看板に掲げた20世紀最悪の「大衆運動」がドイツで政権の座に就くことになる)。
私は、蛸壺化・自己満足化する(しそうな)ネット上の言説や、仲良しクラブ化する(たぶんそうなる)ネットコミュニティ、例えばSNSを、内田さんの論考に重ねてみたい気が微妙にする。もちろんそれは偏屈で「うざがられる」行為には違いない。が、多様性を「うざがる」ことがどのような社会を招き寄せるか、その危険を思えば、考えておいて損はない。
民主主義(と資本主義)が勝利した現代で、そんな憂いは必要ない? でも内田さんはこう書いている。
私たちは疾くから自分たちのいるのは「大衆社会」だと思っていた。
しかし、もしかすると私たちは「見通しが甘かった」のかもしれない。
オルテガやニーチェが絶望的な筆致で記述した「大衆社会」は日本では「これから」始まるのかも知れない。
というところで、久々にゆっくりできる週末に突入。

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