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2005.02.06

レイクサイド・マーダー・ケース

 原作は東野圭吾の「レイクサイド」。ミステリファンの人にとっては、話しの展開が読める平凡な作品らしいのだが、私は原作を読んでいない上に、人の言うことを素直に信じやすいところがあるので、お話しに沿って結構楽しめた。以下ネタバレあり。

 3段構えの展開で心が動いていく主人公を演じた役所広司は、自然にうまい。柄本明は定まった個性でこちらも相変わらずだ。しかしその二人よりも、サラリーマンの親を演じた鶴見辰吾が、目立ちすぎずにうまかったと思う。前二者が、広告業界人と医者というあまり一般的ではない背景を持つ親の役なのに対して、鶴見が演じたのはごく普通の役柄だからだ。
 そうした、ごく一般的な親を持つ家庭においての、お受験やら人の命やらといった事柄の重みが、この作品では重要だと思う。話しが展開する中で変化していく登場人物の気持ちや、場が表現する文脈の変化を、鶴見はうまく演じていると思った。


 このお話しは詰まるところ、一体何だろう。

 お受験は、家族という集団にとってひとつの目標だが、その程度ならいろいろ意見の相違はあろう。しかしお受験にとどまらず、子供の一生という風に視点が変わったらどうなるか。さらに、子供を第三者的な立場に置いたままの親主体の視点から見るのではなく、子供が正に当事者であり親は脇から手助けする程度のものでしかないということに気付いてしまったら。そして最後に、当事者である子供が大人になり、再びその問題に回帰してきたら。

 そうした文脈の変化の中で、家族という集団と、子供の将来というテーマと、それを妨げる外敵とが、相互作用し立場を変えながらもつれあっていくのが、このお話しの肝なのだろう。

 最後に、役所演じる父親が、お受験に懐疑的な立場を捨てて彼らの仲間になっていくことで、妻との間のぎくしゃくした関係を解消し、やっと本物の夫婦になることができたという結末に、外敵が集団の一体感を高める、そのことの業というものを、私は感じた。

家族に限らず、人の集団一般に当てはまる話しだと、そう思った。


で、もちろんそれだけじゃ済まないよ、という暗示を込めて、東野原作のこの映画は終わるのだった。

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